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NBS創設記念!! 2020東京五輪招致決定か!? 直前特集① 2016東京五輪招致落選の理由はこうだった!国際政治の追い風は吹かず。(玉木正之)

 2020年オリンピック・パラリンピックの開催都市を決定するIOC(国際オリンピック委員会)総会の日が、あと1か月あまりに近づいた(9月7日@ブエノスアイレスinアルゼンチン)。

 何でも賭けの対照にするロンドンのブックメーカーの最新情報によれば、掛け率は東京1.3倍(イスタンブール3.25倍/マドリッド6倍以上)で、開催地としては、東京が最も可能性が高いという(7月12日現在)。

 もっとも、ブックメーカー(賭け屋)も商売なら、自分が儲けるためには本命と確信する都市を本命から外し、自ら対抗都市に掛金をつぎ込んでおくと大儲けできる。賭け屋の予想などに喜ぶことなく、関係者は「票集め」「票固め」のロビイ活動に奔走していることと思うが、ここで、もう一度、前回2016年の五輪開催都市が、どのようにしてリオデジャネイロ(ブラジル)に決まったのか……を、振り返っておくのも、意味のないことではあるまい。

 それは、完全に「国際政治の力学」としか言えない「力」が働いた結果だった。以下は雑誌『新潮45』2009年12月号に書いた原稿に手を加えたものである。そして、『2020東京五輪招致決定か!?直前特集第2弾』としては、スポーツ・ビジネスの世界の第1人者である広瀬一郎氏に、2002年ワールドカップの場合……の報告をしていただき、2020年五輪招致を考える材料としたい。

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「何か、“大きな力”が働いたとしか思えない」
 2016年のオリンピック開催都市がリオデジャネイロに決定したことについて、石原東京都知事は、そう語った。

 コペンハーゲンIOC総会での敗北直後には「敗因はわからない」と、茫然自失気味に悔しさをにじませてた知事も、一夜明けると冷静さを取り戻したのか、「正解」を口にした。そう。そのとおり。「大きな力」が働いたのだ。

 オリンピックに、そのような「力」=「国際的政治力学」が働くのは、関係者のあいだでは周知の事実であり、その「大きな力」を引き寄せることこそ招致運動だったはずだ。

 もちろん石原都知事も、そんなことくらいは百も承知だった。
 だからこそ04年のアテネ五輪、08年の北京五輪、14年のソチ冬季五輪など、各大会の招致に成功した世界的スポーツ・コンサルタント会社と億単位の契約を交わし、万全の体制で臨んだはずだった(註・東京は、今回はコンサルタント会社を変更。リオを勝利に導いたほか、他にもピョンチャンの2018年冬季五輪、ラグビーの五輪正式競技化に成功したコンサルタント会社に乗り換えた。前回東京に付いて敗北したコンサルタント会社は、今回イスタンブールに付いている)。

 小生は、「東京にも五輪招致成功の可能性があるかもしれない……」と判断し、招致反対派から賛成派に転じた。転向した理由は、もちろん、コンサルタント会社との契約だけではなく、あと三点ほどある。それは後述するとして、どうせ招致できないとわかっていて招致運動をするほど愚の骨頂はない。

 昨年(2008年)開催された北京五輪では、一番最初に招致に名乗りをあげたニューヨークが、一週間後に早々と立候補を取り下げた。その時点で、中国を国際社会に引きずり出そうとする「大きな力」が働いたことは、誰の目にも明らかだった。にもかかわらず人工島に地下鉄を通したいと考え、「史上初の海の五輪」で立候補に踏み切った大阪は、まさしく愚の骨頂だった。

 のちに「中東の(疑惑の)笛」で有名になったクウェート・ハンドボール協会会長でアジア・オリンピック評議会会長のアハマド王子を接待し、「私が30票は確保する」と約束した言葉に大阪五輪招致委の関係者は喜んだ。が、結果は北京44票、トロント20票、パリ15票、イスタンブール17票。大阪はわずか6票。初回投票で落選。北京は2回目の投票で早々と過半数を獲得し、「予定通り」開催地に選ばれた。

 アハマド王子の約束は……などと今更いっても仕方ない。東京は、そんなアハマド王子に昨年10月、学術・文化・教育・スポーツに大きく貢献し、日本とクウェートの親善関係を推進したとして、日本体育大学から名誉博士号を授与した(もちろん東京都が働きかけた、などとは言ってませんが)。

 そうして大阪での「空手形」も水に流し、北京五輪アジア予選ハンドボールの「疑惑の笛」以来、ぎくしゃくしていた日本との関係修復にも努めた。マァ、つまらないことかもしれないが、いろいろとやっておかねばならないこと(すなわち、政治)に、東京はきちんと対処したのだった。

 少々古い話を引っ張り出すが、1964年の東京五輪招致を決めたときは、当時のアベリー・ブランデージIOC(国際オリンピック委員会)会長に対して、東京(日本)は、「プレゼント攻勢」を仕掛けた。受け取る側のアメリカ人建設会社社長ブランデージ氏も、当時は、それを悪いことだとはまったく認識していなかった。

 国際的親睦団体であるIOCの役員が、関係者からプレゼントを受け取るのは当然と思ったのか、引退後の自叙伝にも、東京五輪招致委員から「素晴らしい柿右衛門の壺」を「見せてもらった」り……、自分が趣味にしていた「象牙の根付けのコレクション」を、「見せてもらった」ことで、引退後は個人博物館を開館できたことを、何の臆面もなく堂々と開陳している。

 もっとも東京も、開催が決定していた1940年大会が、第二次大戦でヘルシンキに変更され(さらに中止となり)、戦後最初に名乗りをあげた1960年大会ではローマに敗れるなどの辛酸を舐めている。その経験を踏まえての東京五輪、さらに札幌冬季五輪(1972年)へ向けての「プレゼント攻勢」だったのだ。

 おまけにそのときは「敗戦国の国際社会復帰」という大義名分もあり、ローマ(イタリア)の次、そしてミュンヘン(ドイツ)よりも先に、「大きな力」を味方にすることもできた。プレゼントは、その「力」の動きをコンファームする手段だったといえる。

 1998年の長野冬季五輪では、その経験が堤義明という一人の人物に引き継がれた。日本体育協会副会長、スキー連盟会長、JOC(日本オリンピック委員会)会長等々……日本スポーツ界の要職に就いた彼は、自ら経営する冬季リゾート施設(スキー場やホテル)のある長野に冬季五輪を招致し、新幹線建設や高速道路の国によるインフラ整備を企図した。

 そのために彼は、まずIOC本部のあるローザンヌのオリンピック博物館建設に協力。三十社余りの日本企業から(1社1億円といわれる)寄付金を募り、のちにIOCから勲章を授与され、博物館の大きな石に個人名が刻まれるほどの「貢献」をした。

 さらに、堤氏の経営するプリンス・ホテルのすべてのレストランで使うワインを、サマランチIOC会長(当時)のワイナリー産のものに変えたり、サマランチ会長に時価1千万円もする日本刀を送ったり……で、大会招致に成功したあとは、招致委員会の帳簿を焼き捨てなければならないほどの使途不明金(長野県・市の税金)を使い、その結果、欧米の有力都市を破って開催都市に選ばれたのだった(投票は4回。落選した順にアオスタ=イタリア、ハカ=スペイン、エステルスンド=スウェーデン、ソルトレークシティ=アメリカ)。

 このときの長野の「手法」を真似たソルトレークシティは、続く2002年の冬季五輪招致にたった1回の投票で過半数を得て大勝利。くわえて1996年夏季大会にアテネを破って選ばれたアトランタ(オリンピックのビッグスポンサーであるコカコーラ社の本社のある都市)でも、招致活動を巡る「問題」が指摘されるようになり、その結果、現在のように投票権を持つ委員の招致立候補都市への訪問が禁じられ、評価委員会が事前調査を報告書にまとめるなど、IOCは様々な「改革」に手を付けた。

 それによって、招致合戦で「実弾」「袖の下」「アンダーテーブル」……が飛び交っていた状況は(少しは?)影を潜めたという。話が横道に外れたついでに書けば、かつてIOCの「袖の下」は「ファーストクラス・チケット本位制」といわれ、招致立候補都市は「来週の会議に御家族でお越し下さい」と、突然ファーストクラスの航空券を送りつける。「そんなに急には伺えない」と委員が返事すると、「会議の日程は改めます。航空券はそのままに……」で、それを何度も繰り返す……。

「柿右衛門の壺」から「ファーストクラスのチケット」への変化も興味深いが、それはさておき、裏の動きが(完全に……とは言えないまでも)封殺された結果、「大きな力」の働きは、より強くなった。

 2008年に北京を国際社会に招き入れようとした「大きな力」のため、立候補を見合わせたニューヨークは、続く2012年大会の招致に予定通り立候補。しかし当選確実との慢心があったうえ、同時多発テロによって招致運動が疎かになり、さらに02年のソルトレークシティ冬季五輪の開会式で、同時多発テロのために倒れたマンハッタン・ツインタワービルの瓦礫の中から出てきた「グラウンドゼロの星条旗」を登場させ、多くのIOC委員がアメリカのナショナリズムに辟易とさせられた。その結果、ニューヨークは2回目の投票で早々と敗退(1回目に敗退したのはモスクワだった)。

 ニューヨークに変わって2012年大会の人気を集めたのはパリだった。北京大会が何らかの事情で(たとえば第二の天安門事件が起きたりして)突然開催不可能になった場合を怖れたIOCが、緊急代替地として立候補を要請した(といわれている)パリが、本格的に立候補して人気を集め、第二次大戦前(1900年と1924年)の開催しか五輪経験のないパリ――近代オリンピックの父・ピエール・ド・クーベルタン男爵の母国の首都――での開催は「大きな力(IOC幹部の総意)」になった……はずだった。

 ところが毎大会約1千億円前後の放送権料を支払っているにもかかわらず、「北京の次」との「予定」を覆されたアメリカが反旗を翻し、イラク戦争に反対したフランスの首都での開催に強硬に反対。猛烈なロビー活動を仕掛けた結果、本命パリはわずか4票差でロンドンに敗れ、アメリカとともにイラク戦争を闘ったイギリスの首都が2012年のオリンピック開催地に選ばれたのだった。

 続く2016年の大会は、シカゴが、1996年のアトランタ大会以来のアメリカの都市の大本命といわれ、オバマ大統領夫妻の出席にもかかわらず1回目の投票でわずか18票しか獲得できず、最下位で姿を消したのは、前回のアメリカの(パリ潰しの)動きに対するIOCの意趣返しとの声もある。

 もっとも、シカゴはデイリー市長の側近が競技場建設予定地の一部を買い占めていたことが暴露されたり、USOC(アメリカ五輪委)がIOCに無断で新しいスポーツ専門テレビ局の開設を進めるなどして、IOCの怒りを買い、ベルリンで行われた世界陸上の舞台裏では、緊急に交代した招致委員長がIOC委員への謝罪と弁明に追われていたという。

 それだけにシカゴの落選は、表面的には驚きを「演じ」て大統領夫妻に敬意を表するIOC委員が多かったが、多くのIOC委員の本音は、さほどのサプライズでもなかったという。恐るべきは、そんなシカゴに大統領まで引っ張り出させたIOCの「力」と「技」である。おそらく事情に少々疎いミシェル夫人を通じて「可能性は高い」とでも囁いた関係者が存在し、夫の大統領を動かさせたのだろう。

 が、「ホワイトハウスと国務省のすべての力を使って成功させる」と力説し、シカゴ市民のみならず国民の期待を高めたうえで、無惨にも最下位落選となった責任(というか「力」のなさ)は、大統領の権威失墜としてホワイトハウス周辺を揺さぶった……(註・オバマ大統領のマイナス・イメージはある程度回避できたが、アメリカのIOCに対する怒りはなかなか治まらず、テレビ放映権料やIOCから各国NOCへ分配金等をめぐって両者は対立。2012年のロンドン五輪の直前になって話し合いの決着が付くまで、アメリカとIOCの「冷たい喧嘩」は続いた)。

 コペンハーゲンでのIOC総会では、オバマ大統領夫妻の参加に加えて、鳩山首相、ブラジルのルラ大統領、スペインのカルロス国王と、各国首脳が出揃い(IOCが出揃わさせた?)、IOCは、自らの権威をより大きなものにする闘いに「勝利した」というわけである。

 石原都知事が要望していた皇太子ご夫妻や高円宮妃殿下の参加は、宮内庁が勝利の見込みのない舞台に出せないと判断したのか、石原都知事の根回しが下手だったのか、事情は判然としないが、とにかく不参加に終わった。が、今回の会議でもデンマーク王室が関係し、我が国の皇室とヨーロッパ皇室との関係を考えるなら、招致の成否とは関係なく、今後の日本の皇室外交を考えるうえでも出席されたほうが良かったのではないか、とも思われる(註・元IOC副会長の猪谷千春氏も、自著の中で、日本の皇室関係者がIOC委員になって、皇室スポーツ外交を進められることを進言している)。

 それはさておき、シカゴの次に落選したのが東京となった。が、一回目の投票でシカゴが落選した時点で、「大きな力」の歯車はリオデジャネイロの当選へと着実に回転し始めていた。いや、もっと早い時期から、その線路を敷く作業は始まっていた。

 昨年(2008年)6月4日、IOCは一次審査の結果を公表し、オリンピック立候補都市を7都市から4都市に絞った。その時点での1位は東京で、評価点は(10点満点で)8.3。2位マドリッド8.1。3位シカゴ7.0。最下位リオの評価点は6.4で、一次選考落選のドーハの6.9よりも低いものだった(他にプラハ=チェコ、バクー=ロシアが落選)。

 この時点で「大きな力」が動き始めたことは確実で、その中心になったのは、かつて世界のスポーツ界で権勢を恣(ほしいまま)にしたプリモ・ネビオロIAAF=世界陸上競技連盟前会長(イタリア=故人)、ジョアン・アヴェランジェFIFA=国際サッカー連盟前会長(ブラジル人)、ファン・アントニオ・サマランチIOC前会長(スペイン人)の3人を頂点とする「ラテン・スポーツ・マフィア」と呼ばれる人脈に通じるものだった。

 一時は、彼らの「力」があまりにも突出したために忌避され、2004年の五輪招致レースで本命といわれたネビオロの母国イタリアのローマが、アテネに敗れる波乱もあった。が、世界のスポーツ界の「意思」はだいたい「ラテン系」対「アングロ・サクソン系」対「アメリカ」の三者の力関係によって決すると言われている。

 その他の地域から「綱引きレース」に参加する場合は、どれかの勢力を味方につける必要があり、今回の東京はラテン勢力と手を結び、味方につけようと考えたようだ。

 韓国と争った2002年サッカーW杯招致のときも、日本はアベランジェFIFA会長(当時)と手を組み、アングロ・サクソンのブラッターUEFA(欧州サッカー協会)会長(当時・現FIFA会長)と手を組んだ韓国に対抗。ブラジルをはじめとする中南米ラテン系地域には多くの日本人移民も暮らしているので、この戦略自体は間違ったものとは思えなかった。

 1956年に「南半球初の五輪開催」をメルボルンと争い、ブエノスアイレスが21対20で惜敗して以来、ブエノスアイレス、ブラジリア、リオ……等、南米諸都市は毎回のように五輪招致に敗退を繰り返しており、東京が最大の敵をシカゴと想定し、リオやマドリッドを応援するラテン勢に、敗退したあとの東京への応援を依頼したのは、決して誤った選択ではなかっただろう。

 しかし前述のように、シカゴが自滅して早々に消え去った時点で、東京の戦略はすべて瓦解した。という以上に、マドリッドとリオのあいだで、早くから「ラテン同盟」が結ばれ、先に敗れた都市が残った都市を応援するという「約束」ができあがっていたという。その時点で、東京の戦略は崩壊した、というべきだろう。と同時に、「大きな力」はゆっくりと着実に動き出した。

 IOCの評価委員による最終報告では、東京の施設や計画が「ハイ・クォリティ(高い質)」と評価されたが、リオは(ほとんどの施設がまだ工事すら手をつけられてない時点にもかかわらず!)「ベリー・ハイ・クォリティ(とても高い質)」と評価された。

 今年の6月ごろには、ブラジルのルラ大統領がフランスからジェット戦闘機39機を総額約300億円で購入。サルコジ仏大統領はリオ五輪開催支持を表明した。フランス語は英語とともにオリンピックの公用語で、クーベルタン男爵の母国は旧フランス語圏植民地の国々に、現在でも多大な力を有している。

 「大きな力」をコンファームする動きも加わり、治安の悪さ、犯罪発生率の高さ、2014年W杯開催との二重の負担……といったマイナス要因は吹き飛び、かわって、南米初の五輪開催は、アラブ、アフリカ圏へオリンピックの道を拓く……、海外からの旅行者受け入れはカーニヴァルで充分経験済み……、アメリカ・ニューヨークと時差がない(テレビ中継にタイムラグが生じない)……、バイオ(サトウキビ)燃料で環境にも配慮……といった非常にわかりやすいメッセージが、サンバのリズムに乗って踊り出した。

 しかも、その中心になったのは、世界のスーパースターであるペレだった。
 ラテン・パワーの一員として、最後までリオと争うほど善戦したマドリッドも、サッカー界のヒーローであるラウル・ゴンザレスが招致に尽力した。前回招致を決めたロンドンにもベッカムがいた。東京(日本)には、残念ながら、それほどまでに国際的に有名なアスリートは存在しなかった。

 くわえてペレの所属していたサンパウロ州のサントス、リオのフラメンゴ、フルミネンセ、ヴァスコ・ダ・ガマ、ボダフォゴなど、ブラジルには国際的にも名前の知れたサッカーチーム(スポーツ・クラブ)が数多く存在する。それらは、子供からが参加できるチーム(少年サッカーチーム)を組織し、バレーボールチームやバスケットボールチームも(他に、ボートやボクシングのクラブも)所有している場合が多い。。

 スペインにもラウルが小さい頃(13歳)から育ったアトレティコ・マドリッド(のユースチーム)や、現在所属しているレアル・マドリッドが存在し、最近日本のハンドボールの宮崎大輔選手が入団したアルコベンダスなど、ハンドボール、バスケットボール、水球、バレーボールなどのスペインリーグも盛んに行われ、それらの多くは、市民の参加できるスポーツクラブと一体化している。

 これらのスポーツクラブのトップ選手が招致活動に動き、クラブの会員が招致運動に動く。そういう運動のなかから市民の五輪招致支持率90%のマドリッド、77%のリオといった数字が生み出されるのだ。東京がいくら幟を立て、パンフレットを配り、都民応援団を組織して運動を盛りあげてもIOC調査で59%(東京の独自調査で70%)の数字が精一杯だったのは、プロも市民も巻き込んだ「スポーツクラブ」の有無の差といえるのだ。

 市民のスポーツクラブが発達しているヨーロッパに対して、日本のスポーツといえば学校体育と企業内クラブとプロ興行がほとんどで、東京には高額の会費を支払ってメタボ予防に励んだり、ビジネスのエネルギーを蓄えるためのスポーツクラブは存在しても、一般人からプロまでがスポーツに挑戦する(あるいは楽しむ)スポーツクラブは、ほとんど皆無といっていい。

 そんな「スポーツ・コンシャス(スポーツに対する関心)」の低い社会のなかで、環境問題は「ポイント・オブ・ノーリターン(引き返し不可能)寸前で、それはスポーツにとっても重要な課題……」と石原都知事が主張しても、「IOCは国連ではない」と言われては言葉もない。また、8キロ圏内にほとんどの競技施設を配置した選手本位の計画と主張したところで、「南米初……」の主張と肩を並べるほどインパクトのある主張とはいえなかった。

 多くの東京都民が、東京の二度目の五輪招致を支持せず、失敗しても残念とも思わなかったのは、オリンピックに関心がなかったのではなく、スポーツそのものが身近に存在していないからなのだ。しかし、冒頭に書いたように、それでも私は東京の五輪招致を支持しつづけた。

 それは、二度目の東京五輪をきっかけに、東京(日本)にもスペインやブラジル、さらにフランスやイギリス、イタリアやドイツにあるような「スポーツクラブ」が数多く生まれるきっかけにならないか、と考えたからだった(それに、築地の魚河岸の豊洲への移転計画が、東京五輪招致とは無関係なものになったことも大きかった)。

 新しいオリンピックの開催で、改めて「スポーツとは何か?」という問いかけが始まり、それは、若者に体力をつけさせるため強制的に教育として行わせる「体育」とはまったく異なるもので、誰もが自由に楽しむことができるものである、という認識が広がる……。そして、ただ興行として見せるだけ(消費するだけ)のスポーツを応援するのではなく、多くの人にサポートされたスポーツクラブが数多く生まれ、市民のクラブとして発展する。そうしたなかでこそ世界一流のアスリートも育ち、「体育の日」「国民体育大会」「日本体育協会」といった名称の変更(「スポーツの日」「国民スポーツ大会」「日本スポーツ競技団体連合」等)とともに、全国各地に市民スポーツクラブが生まれれば……。

 しかし、それはやはり順序が逆で、そのような国内の改革は、オリンピックを招致する以前に、あるいは、その運動と同時に行われるべきだったのだろう。まず体育と企業内クラブと興行スポーツ中心の日本のスポーツのあり方が改められ、誰もがスポーツを楽しむ権利(スポーツ権)を認められる社会づくり(スポーツクラブづくり)が先でなければ、どんな都市が何度招致に立候補したところで、オリンピック開催に対する市民や国民の広範な支持を得ることはできないだろう。

 コペンハーゲンのIOC総会では石原都知事と並ぶ森喜朗元首相の姿が何度かテレビの画面に映し出された。日本体育協会の会長として(日本ラグビー協会の会長でもある)招致運動に一役買われたのだろう。が、スポーツ団体という非政府組織の長に、現役の国会議員(しかも元首相)を迎えるのは明らかに不可解で、その国会議員が政権政党議員の場合は、税金の「配付元」と「受取人」がイコールになる。また、その議員の所属する政党が政権政党でなくなると、そのスポーツ団体は、政権と敵対することになる。

 自由民主党が常に政権政党の時代は、日本のスポーツ団体も自民党に擦り寄り「予算獲得」に動くほかなかったのかもしれない。また、人気のあるオリンピック選手やスポーツ選手が自民党から出馬したり、自民議員を応援するなかで、ナショナルトレーニングセンター等の施設を「獲得」してきた。

 が、もはや、そういう時代ではあるまい。東京の五輪招致再立候補を(あるいは他の都市の立候補を)考える前に、根本的に問い直し、考え直すべきは、日本のスポーツのあり方だろう。日本のスポーツを、プロも、アマも、野球も、オリンピック・スポーツも、どのような組織に改編すべきか……。

 夏季五輪を二度以上開催した都市はアテネ、パリ、ロンドン、ロサンゼルスのわずか4都市。ところが二度目の招致に立候補して失敗した都市は、ストックホルム、アムステルダム、ベルリン、ヘルシンキ、メルボルン、ローマ、モスクワ、それに今回の東京が加わり8都市(日本では札幌が冬季五輪の二度目の招致にも失敗している)。

 それだけ「夢をもう一度」と思う都市が多く、オリンピックが夢多きものであるのは事実のようだ。今回小生が二度目の東京五輪招致に賛成したのも、ルーツは小学六年生のときに日本列島を席捲した東京オリンピックの素晴らしい記憶に動かされてのことだった。

 ほんの20年前までは三八式歩兵銃を握りしめて行軍したり、泥水に半身を浸からせて戦場で眠っていた父親たちの誰もが、開会式の行進を見て大粒の涙を流していた。閉会式を中継したNHKのアナウンサーは、「もしも世界平和というものが存在するなら、それはこのような光景のことを言うのでしょう」と絶叫した。そんな1964年の東京オリンピックのような美しい大会が、二度と実現するとは思わない。

 が、そのときの興奮と感動の記憶がスポーツライターという仕事を選ばせたのは嘘偽りのないところで、2度目の東京五輪を見届けて引退するのも悪くない、との気持ちも胸に湧いた。が、やはり、そんな個人的感情を抱いての五輪招致は、動機が不純だったと(個人的に)反省しなければならない。ならば「東京」はどうだったか? 五輪東京招致に力を入れた人々は、どうだったか?

 冒頭に書いたオリンピックを動かす「大きな力」とは、「国際政治の力」である。しかし、いざ大会が始まると、行われるのは「スポーツ」である。改めて検証するには紙幅が足りなくなったが、過去のオリンピックの舞台で、スポーツは政治に勝ち続けてきた。政治に負けたかに見えて、勝ち残ったのはスポーツだった。これだけは確かである。

 だから日本も、政治的にオリンピックを招致することばかりを考えるのでなく、今後は、まず国内のスポーツのあり方を考え直し、その環境を整え、そこから改めてオリンピック招致のあり方も考えるべきではないだろうか。

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 それから4年……。残念ながら「国内のスポーツのあり方を考え直し、その環境を整え、そこから改めてオリンピック招致のあり方も考える」ようにはならないまま、東京は、2020年に五輪開催都市に立候補し、噂では、最有力候補……とも言われている。

 体罰、パワハラ、セクハラ、日本のスポーツの本質的問題……それら諸問題の改革のきっかけづくりとして、いまは、東京五輪招致を必死に応援するほかない。

 1964年の東京オリンピックでは、東京の街が、日本の国が変わった。2020年東京オリンピックでは、日本のスポーツが変わり、日本の社会が変わることを期待して……。

(『新潮45』+NBSオリジナル)
写真提供:フォート・キシモト