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パラリンピックは誰のものか(1)(大貫 康雄)

〈ストーク・マンデヴィル病院で始まったパラリンピック〉

身体障害者のスポーツの祭典、2012年「夏季パラリンピック・ロンドン大会」は21競技503種目に増えた。日程は8月29日から9月9日で、今や最も規模の大きい国際スポーツ大会のひとつになった。

この身体障害者スポーツ大会の発祥地は地元イギリス。それもあってイギリスのメディアの報道は、夏季オリンピックが終わると共に公共放送BBCをはじめパラリンピック特集を組むなど熱が入っている。

しかし、パラリンピックでもイギリスを含め各国の報道は、とにかく自国の選手団がどれだけメダルを獲得するかに焦点を当てたものが多い。

オリンピックほどではないが、パラリンピックがより多くの関心を引くようになるにつれて企業がスポンサーとなり、メディアの報道も増えてきた。 そして選手の訓練と共に器具の改良競争などにしのぎを削っている。

また、技術革新と創意工夫で、新しい障害者スポーツも生み出されている

(アメリカではボール・ベアリングを中に入れて、打ったり転がったりすると音が出るボールを使ったテニスが目の不自由な人たちの間で広まっている。日本でも目の不自由な人が、音の出るボールを作ったサッカーを考案し、楽しむ人が増えている)。

一方、傷害の偽装や薬物使用が問題になるなど、負の側面も出てきている。

本来の目的は障害者の治療とリハビリと、人生に積極的な意義を見出すためのものだった。

パラリンピックは、脊椎損傷患者の車いす競技会として第二次大戦後まもない1948年、ロンドンから北西100kmにあるストーク・マンデヴィル(Stole Mandeville)病院で始まった。競技会は728日の一日だけ。16人(男14人、女2人)の患者が病院の敷地内でアーチェリー競技を楽しんだ(ストーク・マンデヴィル病院のホームページを開くと、その時の写真が掲載されている)。

発案者はナチスから逃れてイギリスに亡命したユダヤ系ドイツ人のルートヴィヒ・グットマン医師

ストーク・マンデヴィル病院にいたグットマン医師は、戦後イギリス政府の要請イギリス初の脊椎損傷治療専門科を作る。

第二次大戦で脊椎損傷になった患者の治療回復の向上を図るのが目的だった。イギリスでは当時、脊椎損傷患者は合併症などで1年前後で亡くなっていた。

グットマン医師はスポーツを患者のリハビリの一環として位置付け、また患者に生きる意欲と目的を持ってもらうためにも効果的だと考えた。以後、病院では毎年、車いすの競技会を開催し、患者の状態も改善していった。

 

この話はほかの国にも伝わり、52の競技会にはオランダからの参加者も加わって国際化へと進んでいく(現在、この競技会が初の国際障害者競技会とされ、以降「ISMW競技会・国際ストーク・マンデヴィル車いす競技会」と呼ばれる)。

 1960年の「夏季オリンピック・ローマ大会」の年には、23カ国400人が参加し、初めてストーク・マンデヴィル病院ではなく、イタリアのローマで開催された(日本人選手はゼロ。現在はこれが最初のパラリンピックと言われている)。

ISMW競技会は、その後、会を追うごとに競技数と参加国と参加者数を増やしながら基本的に毎年、病院内で開催される。

 64年には夏季東京オリンピックの後、代々木公園陸上競技場で「障害者のためのISMW競技会」が行なわれ、22カ国375人(日本人53人)が9競技144種目に参加した(第2回パラリンピック)。

以降、ISMW競技会は4年ごとに病院以外の海外各地で開催され、これがパラリンピックとされる(当初、IOCはパラリンピックの名称を使うのに難色を示していたが、障害者スポーツ大会が多くの人々の関心を集めるに従い態度を変化させた。1985年、IOCは「パラリンピック」の名称をさかのぼって使うことを認める)。

○1968年、第17回ISMW競技会(第3回パラリンピック:テル・アビブ開催)

○1972年、第21回ISMW競技会(第4回パラリンピック:ハイデルベルク開催)

1976、夏季モントリオール・オリンピックの年には、ISMW・国際ストーク・マンデヴィル競技連盟と国際身体障害者スポーツ機構との共催でトロント大会が開かれ、のちに第5回パラリンピックとされる。

その後、1988年の第8回夏季パラリンピック以降(夏季ソウル・オリンピック)、オリンピックの後、同じ会場で開催されることになる。

これがパラリンピックに一般の人々の関心を引き付ける大きな要因となる。

1976年からは障害者の冬季大会も開催された(第一回冬季パラリンピック:スウェーデンのエーンシェルド・スピーク)。

○第2回(1980年)ヤイロ(ノルウェー)

○第3回(1984年)と第4回(1988年)は連続でインスブルック(オーストリア)

冬季パラリンピックも1992年の第5回アルベールヴィル大会以降、冬季オリンピックのあと、同じ会場で開かれることになる。

パラリンピックがオリンピックとの関係を強め、IOCがパラリンピックに直接関わるようになる。夏季ソウル・オリンピックの翌1989年、IPC・国際パラリンピック委員会が結成され、以降IPCと協力しながら継続して大会運営を担うようになる。各国の障害者スポーツ団体も国内パラリンピック委員会を整備していった(本部はドイツのボン)。

以降、IPCはIOCの一組織のようになっていく。2000の夏季シドニー・オリンピックの際、IPCとIOCとの間で正式に協定が結ばれ、オリンピック開催都市でパラリンピックも続いて開催し、IPCからIOC委員を出すことが決められた。

2001年にはIOCがパラリンピックの運営・財政面を支援し、オリンピック組織委員会がパラリンピック組織委員会を統合した。

(続く)

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