NBS創設記念!! 長嶋茂雄と松井秀喜に最高の名誉が与えられた本当の理由(ロバート・ホワイティング)
インフレを引き起こすための円切り下げ政策の合間に、安倍政権は、伝説の選手・長嶋茂雄と、松井秀喜の野球界への貢献に対して、国民栄誉賞を贈ると発表した。私には、その「意味」がよく分かる。
読売ジャイアンツの終身名誉監督である長嶋(77)は、日本のプロ野球の発展に多大な貢献を果たしたことが評価された。一方、松井(38)は現役時代、読売ジャイアンツとニューヨーク・ヤンキースで主砲を務め、2009年のワールドシリーズではMVPに輝くなどの活躍によってメジャーリーグでの日本野球の名声を高めたことが称賛された。
あまり知られていないかもしれないが、国民栄誉賞はいわゆる民間有識者の推薦に基づき、首相官邸が選ぶ。広く国民から敬愛され、人々に希望を与えてきた人物や団体に贈られる。1977年に創設され、通算本塁打数世界新記録を樹立した王貞治氏を第1号に、これまでに(註:2012年まで)、20人が受賞している。
なぜ、長嶋と松井が二人一緒にノミネートされたのかを理解することは簡単だ。それぞれが偉大な選手であることはもちろん、二人が師弟として特に親しい関係にあったからだ。
もっとも、今年2月、元横綱大鵬が、死後、同賞を受賞したばかりであることを考えると、安倍首相が、なぜ、今、二人にこの賞を授与したのかは、理解しがたいところがある。が、それはそれとして、この両者が称賛に価する人物であることは、確かなことである。
ジャイアンツの三塁手で、クリーンアップを担うバッターとして17年間活躍した長嶋が、日本球界で最もカリスマ的な人物であることは間違いない。立教大学時代からすでに国民的ヒーローだった彼は1958年、ジャイアンツに入団。ジャイアンツでの練習初日には、キャンプ地にあふれるほどの見学者が集まったほどだ。
プロ野球史上初めて昭和天皇が観戦した天覧試合で、彼が放ったサヨナラ本塁打は、日本球界史において最も劇的な1発だった。
首位打者に6回、セリーグと日本シリーズのMVPに5回ずつ輝いている長嶋は、勝負強いバッターとして名高い。そして、球界一、スイングスピードの速いバッターとも言われた。カラーテレビの普及と時を同じくして、9年連続で日本一になったジャイアンツを率いたのは彼だった。
長嶋の明るく、人を引き付ける人柄と映画スターのような外見のよさは、彼の野球センスと相まって、日本プロ野球界の新たな時代の幕開けに大きく貢献した。
敗戦の焼け跡に現れた長嶋は、GNPの急上昇と自信に満ちた雰囲気の新しい時代の日本の象徴になった。彼は、その地位に、自分ひとりの力で上り詰めたと言え、たぶん彼は、日本で最も「絵になる人物」とも言える。1965年1月の東京オリンピックのコンパニオンとの結婚式も、テレビで全国に生中継された。
メディアでは、長嶋は一般的に、「ミスタージャイアンツ」、または「ミスタープロ野球」と呼ばれ、しばしば「ミスター」という短縮形で呼ばれることもある。
彼は平均打率3割5厘、444本塁打、1522打点という生涯成績を残して1974年に引退した。それだけでなく、彼の高い人気はジャイアンツ監督を2回務めた時も続いた。監督としては、5度のリーグ優勝を果たし、日本シリーズを2度制覇している。
また彼は、様々な国民的行事、最も重要な社交の場に現れると、最高の来賓者として存在し、テレビCMでも常連のスターだった。
長嶋の家のなかには、首相や天皇をはじめ、数々の世界のリーダーと並ぶ彼の写真が飾られている。ローマ法王との写真まである。彼こそが日本の国家元首だと冗談をいう人さえいる。
2003年に起きた脳梗塞のため、右半身が麻痺したが、病気に屈しない彼の姿は、長年、称賛し続けてきた国民たちから、さらなる尊敬を勝ち得た。彼は持ち直した。集中的で厳しい、一連の理学療法のおかげで、彼は右腕と右足の機能と、発話能力を一部取戻した。
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一方、松井が石川県の星稜高校からドラフト1位でジャイアンツに入団したのは1993年。高校時代には、その並外れた打撃成績と、身長188㎝、体重95kgというがっちりした体躯にニキビ顔の風貌から「ゴジラ」というニックネームがつけられた。
彼は、ジャイアンツには10シーズン在籍し、本塁打は332本、セリーグMVPには3度輝き、メジャーリーグに移籍後は、日本の選手が米国でパワーヒッターとして通用するかどうかといった不安を打ち砕いてみせた。
ヤンキースタジアムでの最初の試合で満塁本塁打を放った松井は、その後10シーズンを通して、平均打率2割8分2厘、175本塁打、760打点を上げ、選手の総合評価指標(WAR)は18.6ポイントを得た。
得点圏打率では、松井はヤンキースで最も信頼のおける打者といえる。それはジョー・トーリ監督も認めている事実だ。監督は、「そんな状況で私がバッターボックスに送り出す打者は、ヒデキの他には誰も思い浮かばない」と断じた。
松井はメジャーリーグのプレーオフでは56試合に出場し、平均打率3割1分2厘、本塁打10本、39打点を挙げた。2009年のワールドシリーズでは、ヤンキースが6試合目でフィラデルフィア・フィリーズを下して世界王者になった。が、彼は打率6割1分5厘、本塁打3本を放ち、シリーズMVPに選ばれている。彼に並ぶ実績を残した日本人選手は他にいない。
ニューヨークのマンハッタンで行われたヤンキースの優勝パレードでは、多くのニューヨーカーが、松井に向かって「MVP! MVP!」と叫び、この日本人選手を称えた。それは史上初のできごとだった。彼は、日本人でもアメリカ人やラテン系選手と同じくらい熱烈に崇拝されうることを証明してみせたのだ。
アジア開発銀行の頭取で、日米両野球の長年のファンである、ロバート・オアー氏は当時、「マツイは、いわば「イコライザー」(平衡装置)だ」と言った。「彼が成し遂げた成果は、特別なケースといえる。それは、けっして過小評価されるべきではない。力のある指導者(リーダー・パワー)がやりたくてもできないことを、一般人(ピープル・パワー)として成し遂げたといえるケースなのだから」と話した。
松井はまた、オールスターゲームにも2回出場し、本塁打は日米通算で507本放った。この実績を上回る選手はほんの数人しかいない。彼は実に多くの日本人をヤンキースタジアムに呼び込んだ。松井グッズは他の選手のものよりはるかに多く、販売された。
ヤンキース入団1年目、キャプテンでスーパースターだったデレク・ジーターのサインボールの販売価格が269ドルだったのに対し、松井氏のサインボールは379ドルで発売された。(ヤンキースのある幹部が、困惑したような様子でこう語ったことがある。「日本から来た観衆はヤンキースの野球について全く関心がないようだ。彼らが望むのはただマツイがヒットを打ち、マツイグッズを買い、母国への誇りを抱いて帰国することだ。ヤンキースの他の選手のプレイを見ることは二の次なのだ」)
入団1年目の終わりに、松井は雑誌『ピープル』が選ぶ、「世界で最も好感のもてる23人」の一人に、ダスティン・ホフマンやジョニー・デップらとともに選ばれた。彼のスターとしての力が評価されたのだという。
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私が最初に長嶋のプレイを見たのは、1962年7月19日のことだ。後楽園球場で行われた、巨人対中日ドラゴンズの試合だった。私にとって初めての日本の野球観戦でもあった。私は入場料150円を払って自由席に座り、イカ焼きをつまみにキリンビールを飲みながら、長嶋が48,000人の満員の観衆の前で、本塁打2本と二塁打1本で、ジャイアンツを勝利に導く様子を目の当たりにした(このとき、ジャイアンツの一塁手、王貞治もホームランを1本放った)。
私は、彼の三塁手としての敏捷性や守備範囲、そして肩の強さに特に感銘を受けた。ラインナップに彼の名があれば、ジャイアンツの内野の左サイドは彼一人で十分だった(ショートの黒江透修は後年、自分めがけて転がってきたゴロまで捕球しようと、長嶋がしばしば彼の守備範囲に侵入してきたと愚痴をこぼしたほどだ)。
私はその後、長嶋のプレイを何度も見たし、ジャイアンツの監督時代にはインタビューもした。1982年には、モントリオール・エキスポスのゲーリー・カーター捕手と一緒に自宅にも訪問し、家族とも会った。その際、玄関には長嶋が当時のカナダ首相のピエール・トルドーと握手している写真が飾られていた。それは、カーターをリラックスさせる、長嶋のちょっとした心遣いだった。
長嶋には快活な陽気さと人々を明るい気持ちにさせるユーモア感覚があった。彼は無意識のうちに笑いを生むようなところがあった。かつて、「私は東京に住んでいる(I live in Tokyo)」という文章を過去形にすれば? と問われた彼は、「私は江戸に住んでいる(I live in Edo)」と答えたことがある(というジョークも生まれた?)。
彼は、英語が話せるわけではなかったが、日本語と英語を織り交ぜて話す奇妙な癖があった。たとえば、「失敗は成功のマザー」といった具合だ。また、彼はうっかり屋としても有名だ。ある日、息子を球場に連れていったものの、自分だけ一人で帰宅してしまったこともあった。
しかし、長嶋について私がもうひとつ覚えているのは、彼のもつ「特権意識」だ。ジャイアンツのスプリング・キャンプのとき、彼は朝のランニング中、何も言わず、後ろを振り返ることもなく、ジャケットを脱ぎ、グラウンドに放り投げた。後ろを走る選手がそれを拾い上げることを期待していたのだという。
また、私がある日、後楽園球場の1塁側ダグアウトの前で別の記者と話をしていたら、当時、ジャイアンツ監督だった長嶋が外野から我々のいるベンチ方向に向かって歩いてきた。
我々はちょうど彼の歩行コース上に立っていたが、普通の人なら、我々を迂回して通り過ぎるだろう。だが、彼は我々に向かって真っすぐに歩き続け、結果的に我々のほうがそれぞれ後ろに一歩下がって道を譲る形になり、彼は何ごともなく通り過ぎっていった。
長嶋がクレジットカードを申し込んだ時、申請書の職業欄に、平然と「長嶋茂雄」と書き込んだこともある(とも言われている。編集部註:職業欄にそう書き込んだのは海外旅行のホテルにチェックインしたときのことだった、という説もある)。
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一選手としては、おそらく長嶋は最高の努力家ともいえた。彼は、しばしばバットを腕に抱いて眠り、夜中に起き出しては素振りを行った。そんなとき、たいていの場合は素っ裸だったと、地方遠征でホテルの同部屋になった選手が証言している。また、日本野球では選手に、大きな努力を求めることは周知の通りだが、監督としての長嶋もまた、そうした要求の厳しさで知られる。
1979年の11月、彼は伊豆半島での1カ月間のキャンプを行い、日の出から日没まで練習が行われた。その際、全投手に1日10㎞のランニングを課し、打者には素振り1000回を命じた。疲労のため倒れた選手は一人だけでなく、長嶋が待機させていた救急車も使われたという。
「選手をこういう形で鍛えることは、精神を養う」と、長嶋は当時、話していた。
彼はまた、反抗的な若手選手を平手打ちにしていたことでもよく知られている。ある日、彼は元メジャーリーガーのアメリカ人選手デイヴィ・ジョンソンがタオル1枚巻いただけでの格好で球団の風呂場から出てきたとき、怒りを爆発させた。
それは、1976年のオールスター戦の最終日だった。ジョンソンは、なかなか治らない手の外傷をアメリカの専門医に診てもらうため、帰国する意志を表明していた。
長嶋はジョンソンが最初に帰国の希望を切り出したとき、帰国を許可しなかった。ジョンソンが彼に反抗しているのではと疑っていたし、口には出さなかったが、日本の医師への侮辱だとも思っていた。たしかに、そんなことをする日本人選手は一人もいない。
「お前は本当に帰国するつもりか?」と、長嶋は怒りで顔を真っ赤にして尋ねた。
「イエス。でも、数日で戻ります」とジョンソンは答えた。
長嶋はジョンソンにチームを見捨てたとして責めた。そして、ジョンソンのタオルを剥ぎ取り、股間を指さして叫んだ。「嘘をつけ。もし、お前に玉が二つあるなら、日本に留まるはずだ。でも、お前は男なんかじゃない。女だ!」
ジョンソンは屈辱を覚えた。「私はもう少しで監督を殴ってしまうところだった」と彼は明かし、「でも、監督はただ、僕の状態を正しく理解できないだけなんだと悟ったんだ」
ジョンソンはチームに復帰し、シーズンの残りの試合で活躍し、ジャイアンツのリーグ優勝に貢献した。しかし、チームでの人間関係は悪化したし、監督との意見の相違もあったので、次のシーズンに、ジョンソンがチームに復帰することはなかった。
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松井は別の理由で記憶に残る選手だ。長嶋とは違い、彼はサインやインタビューの依頼をけして断らなかった。けして腹を立てることもなかったし、他者に対してはいつも丁寧な言葉で接した。彼は野球選手よりもスポーツ記者と交流することを好んだ。なぜなら、記者といるほうがより楽しいと感じていたからだ。
ニューヨークでは、彼はヤンキースの球団史上、ニューヨークの記者を夕食に誘った初めての選手になった。それは、2003年のタンパでのスプリング・キャンプでのことだった。その夜の終わりに、彼は、おそらく15人はいたと思われる記者一人ひとりに、プレゼントを渡した。プレゼントのいくつかは、彼が熱心に集めたアダルト・ビデオだったが、以前、ポルノ・コンテストの審判を務めたこともある彼のことだから、悪びれたそぶりなど一切なかった。
私がレジェンド・フィールドでインタビューしたとき、松井は、男性なら誰でもアダルト・ビデオをコレクションするもので、そう考えない人がいることに驚いた、とざっくばらんに話してくれた。
松井と長嶋監督、二人の関係は特別だ。ジャイアンツ時代の初期、彼はよく監督の家に、早朝訪問し、バッティングの指導を受けていたという。
長嶋のアドバイスは、「バットを振る時、全神経の末端まで使ってバットの音に集中するように」といった具合で、かなり曖昧な表現だったという。良いスイングかどうかは、バットの音で分かるということなのだろう。
しかし松井は、長嶋との練習が彼の人生で最高の時間だったと語る。ヤンキースに移籍後も、彼は時々長嶋に国際電話をかけ、電話機を傍らに置いて素振りを行い、師匠にスイングの音を聞かせ、評価してもらっていた。こんなことをしている野球選手を、私は他に知らない。
2006年に、松井はダイビング・キャッチを試みて手首を骨折し、シーズンの大半を棒に振った。そのとき彼はヤンキース・ファンとチーム・メイトに対し、期待を裏切ったことを謝罪し、主要メディアを前に一連の自己反省を始めたことで、アメリカ人を驚かせた。
ロサンゼルスタイムズのコラムニスト、トム・プレートは、「人間的には最悪としか言いようがないスーパースター選手がエージェントに守られ、甘すぎるほどの高給をもらっている時代にあって、日本からやって来たマツイは、そんな最悪のスーパースターたちを超越した素晴らしい選手だった。一人の人間として、かつチームの一員として深い威厳を備えた特別な選手として・・・。彼が発する『アイム・ソーリー』という言葉は、『新たな自由の鐘』のようにアメリカ人の心に響いた」と書いた。
このように、長嶋氏と松井氏が国民栄誉賞を師弟でダブル受賞したことは、やはり納得できることなのだ。
(翻訳:星野恭子 High honor for Nagashima, Matsui by Robert Whiting『ジャパン・タイムズ特別寄稿』2013/4/7)