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NBS創設記念!! 体罰に対する日本の著しいアンビバレンス(両面性)について…(アーロン・ミラー)

今年1月、また一人、10代の若者が命を絶った。今回は大阪に住む高校2年生の少年で、所属するバスケットボール部のコーチに何度も殴られたのち、自殺した。報道によれば、このコーチは警察の取り調べに対し、少年がチームの主将であったことから、厳しく指導していたことを認めたという。

この事件は、1980年代前半、同様の体罰を受けたのち、自殺した陸上競技のスター選手、竹内恵美のことや、2007年、時津風部屋の若い力士、時太山が兄弟子らにビール瓶や野球のバットで殴られ、命を落とした事件を私に思い出させた。

こうした悲劇は世界中で起きている。しかし日本では、厳しい指導を無条件に崇めているわけでないが、それもスポーツ文化の一部だととらえる風潮がある。

私は、日本における体罰について調査研究し、教えてきた長年の経験から、ある同一のパターンがあることに気づいている。

そのパターンは、こうした命にかかわる事件に関して特に顕著に見られることで、体罰を行うコーチは往々にして、「犠牲者」はそもそも「犠牲者」ではなく、むしろ、「特別に選ばれた選手」であり、その潜在能力を最大限発揮させるためには厳しい指導は当然だとさえ信じている――そんなふうに思われることだ。

コーチはさらに、「選ばれた選手」は、苦難に直面することで確固たる忍耐力が身に付けられること、そして、コーチへの絶対的服従やチームへの変わらぬ忠誠心が必要だということを他のチームメートに示す良き手本となるため、体罰にも口答えせずに受け入れることを求めるのだ。

「選ばれた選手」がコーチのため、チームのために体罰を受け入れ、教えに従うとき、彼は「個人よりもチーム」という強烈な教訓を学ぶ。そして、たいていの場合、彼はその教訓をその後の人生を通してずっと抱き続ける。

しかし、選手がそうした現状を受け入れなかったとき、今回の事件のように、悲劇的な結末を迎えるのだ。

驚いたことに、日本ではスポーツのコーチは、たとえ選手を殴ったり、ケガを負わせたり、殺してしまったと文部科学省に対して認めたとしても、10人に6人は罪に問われない可能性がある。体罰の陰に潜む、社会的秩序を保つための厳しい指導ともいえる、慣習上の教育哲学をはびこらせ続けるために、日本政府は若者たちを犠牲にしてもかまわない、とでも言うのだろうか?

おそらく日本で最も悪名高き犯罪者であり、体罰提唱者である戸塚宏ですら、1970年代後半から80年代前半に自身が経営するヨットスクールの生徒数人を死に追いやったにも関わらず、わずか数年の懲役刑しか課されなかった。2006年の出所の際、あからさまに挑戦的な態度で、「体罰は教育である」と彼がメディアに向かって語ったことは周知の通りだ。戸塚ヨットスクールは活動を再開し、今に至っている。彼の哲学は現在まで生き続け、しっかりと根付いているといえそうだ。

哀しいことに、依然として犠牲者も出ている。09年にも、スクールの生徒一人が自殺している。

第二次世界大戦以降、日本の教育施設での体罰が違法とされていることや、あるいは明治時代に体罰を禁止する法律が成立したことを知っている人は、外国人はおろか、日本人でもほとんどいない。実際、日本は世界で6番目に体罰を禁止した国である。それは1879年のことだ。以来、体罰禁止の是非について活発な議論は続いているが、教育機関に体罰は存在しないというのが、戦後日本の公的な方針である。

にもかかわらず、依然として類似の事件は起きている。体罰は生徒を指導する最良の方法だと強く主張する教育者への対策を、文科省が何もしていないからだ。

冒頭でふれたバスケットボール部のコーチが今度どうなるかは、時間の経過を待つしかないが、彼が罪を逃れる可能性がかなり高いということは、歴史が示している(編集部・註:その人物は、高校を懲戒免職されたのち、大阪地検が暴行罪と傷害罪で在宅起訴。今後、裁判のなかで、事実関係が明かされることになる)。

だが、今、我々がある種の確信をもって言えることは、近代の日本は体罰に対して、かなり顕著な両面性(アンビバレンス)を育んできたということだ。この両面性のことを、教育学者の今津孝次郎は「体罰の建前と本音」と呼んでいる。言い換えると、日本政府は体罰禁止の条項をもつ法律を制定するかもしれない。が、一方で、日本の教師は全員、体罰は教育現場で時々は用いられねばならない必要悪であると確信しているのが現状とも言える。

体罰とは、ある日には教育現場での効果的な規律を保つ絶対に必要なツールであり、その翌日には痛ましい悲劇を引き起こす「厳格な指導」のための物騒な方法であるという、両面性を持ちうるものだろうか?

その可能性はあるかもしれない。だが、大阪の少年のような若い犠牲者たちのことを考えれば、体罰は単に後者であるとしか思えない。

(翻訳:星野恭子/You can read original English text on Daily NOBORDER)
写真提供:フォート・キシモト