生涯ジャーナリスト、ポーランドのバルトシュエフスキ元外相逝去(93歳)〜戦時中は対ナチス、戦後は対全体主義抵抗の闘士、そして冷戦後はポーランド・ドイツ和解を推進〜
5月4日、ポーランドの首都ワルシャワの大聖堂で、先月24日逝去した元外相バルトシェフスキ(Wladyslaw Bartoszewski)氏の葬儀が行われた。氏が単なる外相では無かったのを物語るように、葬儀にはコモロフスキ大統領、前首相でEU理事会のトゥスク議長らポーランド要人と共に、ドイツのガウク大統領も参列した。
バルトシェフスキ氏自身が言うように、氏の生涯は戦時中も戦後も、自由と人権を抑圧する独裁体制、全体主義風潮に対する抵抗の闘士、ジャーナリストだった。
氏はナチス・ドイツのポーランド侵攻後、抵抗闘争に身を投じて逮捕され、アウシュヴィッツ収容所に収容される。赤十字の一員だったことから赤十字の抗議で間もなく釈放されると、直ぐに対ナチス地下抵抗組織の一員となり、ゲットー蜂起や戦争末期のワルシャワ蜂起に参加、この過程で多くのユダヤ人を救出する。
戦後はフリーランスのジャーナリストとしてスターリン体制下ポーランドの独裁体制を批判、スパイ容疑をかけられ50年代半まで10年近く投獄される。
その後も、隠された事実や犯罪の真相を突くフリーのジャーナリストとして体制に睨まれ、ポーランド語での出版を禁止されながら抵抗運動を進める。80年代にはいち早く「連帯」に参加するなど、独裁には断固として不服従、自由と民主化の闘いに立つ姿勢は一貫していた。
冷戦後祖国が民主化後の90年、68歳にして初めて公職に就き、オーストリア駐在大使などを歴任。95年と2001年、二度ポーランドの外相を務め、今度は反対の世論が強い中でドイツ・ポーランド間の関係改善、和解を進める。
冷戦時代の70年ブラント首相が東方外交を進めワルシャワのゲットー跡地で献花し、膝まづき謝罪したこと、85年にはヴァイツゼッカー大統領が「戦後40年」の演説でドイツ人に“過去を直視”することの意義を説き、近隣諸国との関係改善を進めていたことを氏は承知していた。国民には敵対を克服し、和解と友好を促進することが大切なことを説く。
戦後50年の「欧州勝利の日(ナチスの圧政から解放の日)」にバルトシェフスキ氏はドイツ連邦議会に招かれヴァイツゼッカー大統領の前で演説する。その映像が和解を進める両国関係を象徴している。
氏は晩年のインタビューで、“戦後10年も経たない内にドイツとの和解を言ったら「狂っている」と批判されただろう”、“最も大切なのは正直なこと、倫理上正しいことをやることだ”などと言っている。
氏は逝去直前まで各国の大学で講演、ポーランド首相顧問として活動していた。
〈写真:By Bronisław Komorowski (originally posted to Flickr as OA8P4683) [CC BY 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.0)], via Wikimedia Commons〉