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いち早く“暗い歴史を直視”、“市民が政治の主役”、と活動したノーベル賞作家ギュンター・グラスGuenter Grass氏が逝去、87歳

 

 ギュンター・グラス氏はハインリヒ・ベル氏と共に戦後ドイツを代表する作家で知識人。1927年10月、第一次大戦後ドイツから切り離された所謂“自由都市ダンツィヒ”(現ポーランド領グダニスク)に生まれ、幾つもの民族が混在する環境で育つ。

 

 日本では1959年出版の長編小説「ブリキの太鼓Die Blechtrommel」で知られるようになる。「ブリキの太鼓」は生まれ育った故郷ダンツィヒが舞台で、30歳の精神病患者オスカルが過去を追想する物語。現実と架空が入り混じる極めて複雑に展開する。

 

3歳で意識的に成長を止めた少年が、ナチズムの影響下、右傾化・学校教育の画一化、モラルの退廃が進行するなか、損得勘定で大人になるのを拒否、善悪の判断をしないブリキの太鼓の子ども奏者になるオスカル。

 

どぎつい性描写や複雑な構成で西ドイツ文壇では高く評価されなかったが、“ナチス時代から戦後に至るドイツ社会の世俗主義を風刺し、ナチス時代の暗い歴史を描いている”と世界的に評価され、逆にドイツ人自身の見方を変えていく。

(「ブリキの太鼓」は79年、シュレンドルフ氏によって映画化され幾つもの国際賞を受賞)

 

戦後ドイツは、広い東方領土を割譲された上、東西分割。当時、西ドイツ政府機関には旧ナチスやナチス思想に汚染された公務員が大半で暗い過去など直視する者は僅か。

反ナチスで評価されたアデナウアー首相が、“泥水の最も汚染されていない上澄みを少しずつ飲んでいく”などと嘆いたような状況。

「ブリキの太鼓」はその中で放った氏の一矢だった。

 

グラス氏はその後も「猫と鼠Katz und Maus」、「犬の年Hundejahre」の「ブリキの太鼓」と共に所謂ダンツィヒ三部作をはじめ、「ひらめDer Butt」、「果てしなき荒野Ein weites Feld」、「蟹の横歩きIm Krebsgangなど、詳細な現実描写と非現実的な展開で織りなす作品で、社会を風刺し続け、一作ごとに論議を巻き起こしてきた。

 

氏はまた“政治を政治家に任せず、市民の手に”と市民の積極的な政治参加を促し、政治家とも頻繁に交流し意見を闘わせた。

社会民主党を公然と支援し、故ブラント首相と親しかったことは周知の事実。ブラント首相の東側との和解を進める東方政策(Ostpolitik)を支持した。

 

東方政策で自分の故郷ダンツィヒがポーランド領になることをドイツが認める事になることについて、氏は“故郷を失うことは辛いことだが、頭ではそれが必要であると理解し、受け止めた”などと苦しい胸の内を語っている。

 

環境政策や女性の権利推進などで挑発的ともいえる活発の言動ため、保守陣営からの批判も厳しかったが、氏は自分の言動が論議と賛否両論を呼ぶのを歓迎していた。

 

戦後ドイツで殆どタブー視されているイスラエル批判も行い、イスラエルのパレスチナ人に対する抑圧政策を批判。“言っておかねばならないことWas gesagt werden muss”でドイツ各界やイスラエルから強い批判を浴びている。

 

ドイツがベルリンの壁崩壊から1年足らず、圧倒的多数の国民が統一を祝う時、政治統一に反対し“文化的な統一共同体であるべきだ”などとも主張している。

 

2002年のアフガン戦争には、武力を武力で解決しようとする危険性を批判。

 

 99年には一連の作品から、“ふざけたような風刺に満ちた、暗い寓話のような作品で忘れられた歴史の側面を描き出した(his)frolicsome black fables portray the forgotten face of history”としてノーベル文学賞を受賞。

 

そのグラス氏、“戦後ドイツの代表的な作家でドイツの良心を代表”するとの評価が定着した2006年8月、自伝と言える「玉ねぎの皮をむきながらBeim Haeuten der Zwiebel」で、第二次大戦の敗色濃い44年11月、17歳の時ナチス親衛隊員となり45年2月から4月に戦車の砲手を務め、負傷してアメリカ軍の戦争捕虜となった過去を詳しく記述、フランクフルター・アルゲマイネ紙のインタビューで、この記述が事実であると言明した。

 

戦後60年を経たノーベル賞作家の言明は国際的に様々な反響を呼び、グダニスク出身の当時のポーランドのレフ・ヴァフェンサ(ワレサ)大統領と与党「法と正義」は一時期、ダンツィ(グダニスク)名誉市民の称号の返上を求めた。

ドイツ国内では大衆紙やタブロイド紙がノーベル賞返還を主張するなどマスコミから強い批判を浴びた。

 

グラス氏は加えて、戦後60年以上も過去の告白をしなかったことに、“過去の重みは決して軽くなることは無かった”とも記し、“隠していた事は誤りだった”とも述べている。

 

60年以上も重荷を追い続けた末の困難な告白に氏の良心を評価したのか、“遅れた告白”に対する批判は鎮まり、ヴァフェンサ大統領とも和解、グダニスク市議会も名誉市民の称号はく奪の決議を取り下げた。

 

グラス氏の生涯は暗い過去の直視から戦争反対、環境保護まで行動する作家・市民として最後まで人々を刺激し、考えさせ、社会に論議を巻き起こした一生だった。

 

〈写真:By Blaues Sofa from Berlin, Deutschland (Günter Grass beim Blauen Sofa) [CC BY 2.0 (http://creativecommons.org/licenses/by/2.0)], via Wikimedia Commons〉