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北京の軍事地下要塞が貧民窟に

 大学卒業前の1980年代の初めに、北京に留学したことがある。受け入れ先は中央民族学院(現在の中央民族大学)。初めて外国人留学生を受け入れるとあって、大変な歓迎ぶりで、平日の中国語の授業のほか、専属のコックがついて、毎日3食とも特別料理。土日は必ず北京市内の名所旧跡の見学に連れて行ってくれた。

 

 そのなかに、文化大革命(66~76年)中に建設された軍事地下要塞があった。市内中心部に位置し、当時は中国一のデパートだった北京市百貨大楼の1階売り場に地下への入り口があった。その階段を下りると、暗闇が広がるなか、裸電球の薄明かりでぼんやり大きな道路が見え、恐怖心が高まったことをいまも覚えている。

 

 中国は文革時代、旧ソ連と激しく対立しており、中ソ国境を流れるアムール川の中州である珍宝島(ダマンスキー島)で軍事衝突が発生。両軍合わせて800人以上が死亡するなど、当時は中ソ両国の全面戦争に発展するのではないかと伝えられたほどだ。

 

 このため、中国内では「ソ連軍が攻めてくる」と大騒ぎになり、中国政府は首都・北京の防衛を固めるために、軍はおろか、学生や市民を動員して、市内全域で地下を掘り、臨時政府や野戦病院、武器貯蔵所などを建設した。その軍事地下要塞はかつての北京の城壁の内部、現在の第2環状線内に、それこそ「四通八達」と市内の四方八方に通じていた。

 

 この前、北京で中国人の知人に連れて行ってもらい、住宅街の一角にある入り口から中に入った。ここは地下要塞全体から見ればほんの一部で、地元の町内会が管理しているという。地下の道路はコンクリートなどで、5~6平方メートルから10平方メートルまで、200以上の小さな部屋に分かれていた。ここの管理人は「1カ月400元(1元=約19円)から800元で貸している」と語っていた。

 

 借り主は農民工(出稼ぎ農民)や、大学を卒業しても職がない「蟻族」、あるいは北京の病院に入院している家族の付き添い人などだ。狭い空間にベッドと小さなテーブルを置いているだけで、見るからに質素。悪く言えば、貧しい。

 北京の物価は高く、マイホームなどは夢のまた夢という庶民が身銭を切って、住んでいるようだ。

 

 かつての軍事地下要塞がいまや地下の〝貧民窟〟に変わっているところに、中国の経済成長のいびつさを見る思いだった。

 

(相馬勝)

PHOTO  by Wikimedia Commons
(北京のイメージです。)