ノーボーダー・ニューズ/記事サムネイル

メルケル独首相、ナチスへの抵抗の村を訪問

 ドイツのメルケル首相は11月20日、旧ドイツ領、ポーランド・シレジア(Schlesien, Silesia)地方の小村クライザウ(シジョヴァ)(Kreisau, Krzyzowa)を訪れポーランドのコパチ(Ewa Kopacz)首相と共に「勇気と和解」展示会に出席した。

 

 クライザウは第二次大戦中一般ドイツ人がクーデターを企画しナチスによって処刑された地。今はドイツ人のナチス抵抗と両国の和解と協力を象徴する地でもある。

 

「勇気と和解」展は、戦後ドイツが近隣諸国との友好関係を最重要政策に掲げ、この地でも着実に和解の事業を進めており、両首相の表情には歴史を克服した確信があったようで、首脳会談の議題は過去ではなく、ウクライナ危機とヨーロッパの将来への取り組みだった。

 

 展示会の開催式典でメルケル首相は、“今日の両国の親密な関係は当たり前に成った訳ではない”、とポーランド人の当時の懸念を理解し明快に語った、

「25年前のベルリンの壁崩壊は新生ドイツにとって最も幸運な出来事だった。しかし同時に再統一後のドイツが何をやろうとするのか近隣諸国が懸念していたことは理解している。

 特にポーランドは第二次大戦で最初にナチス・ドイツに侵略され、過酷な占領とショアー(ホロコースト)という文明破壊を経験しており、統一ドイツに懸念を抱くのは当然だ」

 

 一方でメルケル首相はドイツ人が現在ポーランド領となった地域から強制的に追放された事実にも触れ、「強制追放(民族浄化)は不正なことだが、その前にナチス・ドイツの犯罪行為がなければ起き得なかった」と指摘した。

 

(ナチス・ドイツとスターリン双方の人道に対する犯罪が続き、加害と被害が重なる複雑な歴史が念頭にある)

 

 メルケル首相とコパチ首相との会談では、歴史の克服は過去のものとなり、当面のウクライナ危機解決の方途と同時に、ウクライナ危機解決後のヨーロッパの将来が主な議題になったという。

 メルケル首相が、ヨーロッパの平和と繁栄にとって、“当面はロシアが最大の脅威”としながらも、「中長期的にはロシアとの友好関係が欠かせない」、と将来を語っているのが象徴的だ。

 

 今、クライザウは多くのドイツ人には代々住んでいた故郷を失った象徴になり、また東部地域から同じように強制移住させられたポーランド人には新しい安住の地を見出す象徴になっている。

 

 この地はかつて、ドイツ統一を担ったモルトケ元帥の所有農場の地だった。第二次大戦中、子孫のヘルムート・フォン・モルトケ伯爵はナチスに公然と反対、側近や農場従業員らと共に、ナチス体制崩壊と新しい政治・経済秩序について話し合い体制転覆を企画して失敗。全員処刑された歴史を持ち、一般ドイツ人にとってはナチス抵抗の象徴的な地ともなっている。

 

 戦後ポーランドの国家管理下に置かれたが、70年12月、東方外交を開始した西ドイツ・故ブラント首相のワルシャワ訪問が転機になった。この時ブラント首相はユダヤ人ゲットー跡地で雨上がりの床に跪いて献花、ナチス・ドイツのユダヤ人虐殺に謝罪の意を表した。その場の一枚の白黒写真が世界を巡り、ソビエト首脳にも影響を与え東西関係が進展しはじめる。

 

 80年代に入りドイツ・ポーランド双方の関係者によってクライザウはヨーロッパ友好と協調の場にする取り組みが進められた。戦後アメリカに渡ったモルトケ家の一員フライヤ(Freya)夫人も積極的に協力し、クライザウ財団の事業には夫人の名が冠されている。

 

 ベルリンの壁崩壊から2週間後の89年11月20日、クライザウの教会で西ドイツ(当時)コール首相とポーランド・マゾヴィエツキ(Tadeusz Mazowiecki)首相が出席し「和解のミサ」が行われた。

 

(コール首相が壁崩壊当時の興奮の影で速やかに隣国ポーランドを訪問し、和解のミサに出席してポーランド側の懸念を和らげた外交的手腕には学ぶべきものが多い)

 

「勇気と和解」展は文字通り、両国指導者が勇断をもって和解を進めた成果を語り、その「和解のミサ」25年を記念して開催されたもの。

クライザウが今やドイツ・ポーランド両国だけでなく各国の若者が学び、其々の個性を理解し合う場になった意義が強調されている。

 

(大貫康雄)

PHOTO by Wikimedia Commons.