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“コンビニのおばちゃん”が見た福島県知事選~「内堀知事では子どもの命は守られない」

 前副知事の圧勝で幕を閉じた福島県知事選。6人の候補者の1人、北塩原村でセブン-イレブンを経営する伊関明子さん(59)は、後援会も組織も持たず、夫と二人三脚で県内を巡り、支持を訴えた。結果は2万4669票で5位。得票率は3.4%と惨敗。供託金を含め500万円ほどを費やしたが、「選挙のプロが入らなかった私たち4人への投票こそ民意」と笑顔で話す。“コンビニのおばちゃん”はなぜ知事選に挑み、何を見たのか。疲れ癒えぬ中、語ってもらった。

 

【夫と二人三脚の選挙運動】

 目は真っ赤。身長145cmの小さな身体は、さすがに疲れていた。

 選挙期間中の睡眠時間は2~3時間。ベッドできちんと眠れたのは1日だけ。選挙運動を終え、22時すぎに帰宅してから、休む間もなく経営するコンビニの事務仕事や商品の発注を行った。化粧も落とさず、こたつに足を突っ込んで横になると、もう朝だった。選挙カーの運転やポスター貼りは、午前2時から7時まで店に立った夜勤明けの夫がやってくれた。その夫は、遊説から戻り車のエンジンを切ると、すぐに運転席で寝息をたてて眠ってしまうこともあった。まさに二人三脚での選挙戦だった。

 出馬にあたり、夫からの問いかけは一度きり。

 「君の評判は地に落ちる。『県知事選挙に出るなんて、なんて馬鹿な嫁なんだ』と一生、笑われるよ。それでも良いんですか?」

 自分の評判などどうでも良かった。ただ家族を巻き込み、場合によってはインターネット上で攻撃を受けるかもしれないことには心が痛んだ。「せめて県議選に立候補するなど段階を踏むべきだ」という声もあったが、出馬への意欲は衰えなかった。そんな妻に、夫は一度も愚痴をこぼすことはなかったという。

 「なんてすごい人なんだ、と思いました。未曽有の震災を一緒に経験したわけだし、もしも来世というものがあるのなら、またこの人のもとにお嫁に来たいですね」

 ポスター掲示板を見つけては、選挙カーを停めて夫が降りる。ポスターを貼る夫の横で、伊関さんは街頭演説を始めた。組織などない2人では、用意した7000枚のポスターのうち実際に貼ることができたのは4000枚ほど。面積の広い福島。足を運ぶことの出来なかった町や村が5-6カ所あったという。「夫は『有権者に申し訳ない』とうなだれていました」。9月下旬に払った300万円の供託金は没収。ポスター代などで合計500万円もの費用がかかったが、伊関さんは「お金では買えない物が得られた」と笑顔で振り返る。

 「私が出たことで、選挙へのハードルが下げられたのではないでしょうか。一石は投じられたと思います」

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夫との二人三脚で知事選を戦い抜いた伊関さん。大物代議士からの激励などない。経営するコンビニ裏の選挙事務所には、学生時代の友人たちからの激励が貼られていた=福島県耶麻郡北塩原村

【「私だって、娘が幼かったら逃げた」】

 新しい県知事に選ばれた内堀氏とは、浅からぬ縁がある。

 2002年度から2006年度にかけて実施された「“うつくしま、ふくしま。”県民運動」の第3期委員に応募。当時の面接官が、総務省から福島県にやってきたばかりの内堀氏だった。「福島県をプロデュースしませんか」というキャッチコピーがきっかけで応募したが、面接官としての内堀氏の第一印象は良くなかったという。「彼では子どもたちの命は守られませんよ」。

 県立病院の審議委員を務めていたこともある。だから「突然、選挙に出たように思われているけれども、自分の中では県庁は遠い存在ではなかったんですよ」。当時の知事・佐藤栄佐久氏は「国の原発政策に風穴を開けたい」と口にしていたという。「栄佐久知事が収賄容疑で逮捕されると、徐々に県庁内の雰囲気が変わってしまいました。最初は栄佐久知事を支持する職員が多かったのに、逆になってしまった。だから審議委員を辞めたんです」。

 その内堀氏を巡り、総相乗りの構図が出来上がることに違和感があった。佐藤雄平知事は、内堀氏を手助けするようにギリギリまで態度を表明せず、原発事故後の佐藤県政が総括されることのないまま副知事が後継者に名乗りを上げた。「原発事故後の対応を見ていて『雄平知事のキャパシティを超えているな』と感じていました。県民の命を守れないのなら、せめて最後くらい潔く退陣して欲しかった。他の候補者がフェアに戦える状況をつくるべきでしたよね」。

 原発事故の起きた2011年7月には、県の策定した「復興ビジョン」に対するパブリックコメントとして、こんな意見を寄せている。「今後の福島の人材となる若い行政マンが、放射線量の高い所にいるのはおかしい」、「正確なデータから始めないと、後世に(福島を)渡せない」。こうも書いた。「首相や霞が関の人達がご家族と一緒に移り住んで来ても安心して暮らせるならとどまるけど…」。そこには「私だって、娘が幼かったら福島県外に逃げていた」という想いがある。

 内堀副知事が正式に出馬会見を開いた9月11日、家族で出かけていた郡山市内から、旧知の県会議員に電話を入れた。「オール与党として復興を進めることに決まった」。県議の言葉が終わると同時に新幹線に飛び乗り、県選管に向かった。激動の選挙戦の事実上の始まりだった。

 他候補の支援者から「女性票が割れる。降りて欲しい」と迫られたこともある。公開討論会で「この人なら」と思える候補者がいたら降りてもいいと思っていた。だが「福島の人たちの命、生活、未来を守りたい」という初心を貫いた。それは今でも間違っていなかったと確信している。

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(左)7000枚用意したポスターのうち、実際に貼れたのは4000枚。貼り切れなかったポスターを前に、夫は「有権者に申し訳ない」とつぶやいたという

(右)選挙公報では「知事選を県民の心のデモにしましょう」と呼びかけた

【一番遅れているのがメディア】

 「安全かどうか分からないのに帰還を促す県政は大丈夫なのか?」、「チェルノブイリにエコー検査の装置が導入されたのは事故から4年後のこと。どうして、福島の子どもたちの甲状腺がんが原発事故と無関係と言えるのか」

 選挙公報や街頭演説では、「放射能汚染は風評ではない。原発災害です」と訴えた。だが、メディアからの質問は復興に関するものばかり。放射線防護に関して問うた記者は皆無だった。「メディアが一番遅れていますね。戦時中と何ら変わっていない。向き合うべきことがあるのに…。公開討論会だって、地元テレビ局が開くべきでした」。

 結果は惨敗だったが「あの投票率の中ではよくやった」と自己採点。「政見放送や選挙公報はあなたが一番でした」というはがきが婦人から届いた。後援会などないのに、「ぜひ後援会に入りたい」という連絡をもらったこともあった。若者たちの反応も良かった。

「(内堀氏、熊坂氏以外の)4人は今回、選挙のプロが入っていない。その4人が合わせて10万票を得た。この10万票こそ民意です。今回の選挙は、私たちが待ちかねていた知事選ではなかった。10万人がどういう想いで投票してくれたのか、ぜひ記者の皆さんには取り上げて欲しいですね」。

 県知事選が終わり、再び”コンビニのおばちゃん〟としての平穏な生活が始まった。だが、今後も傍観者や評論家には絶対にならないと心に決めている。「2万5000票近くいただいた責任があります。この地でできることをやりたい。まずは内堀さんに“ラブレター”を出します」。生まれ育った東京から裏磐梯に嫁いで27年。今後も命や未来をテーマに行動していく。

 「夫がね、選挙カーの運転のしすぎで足に血栓ができてしまったの。落ち着いたらマッサージに連れて行ってあげたいわ。全身をもみほぐしてあげたい」

 優しい妻の表情に戻り、伊関さんは笑った。

 

(鈴木博喜/文と写真)<t>