「上州戦争」の戦後処理をしくじった世襲・小渕優子前経産相
「長年、子供のころから一緒に過ごしてきた信頼するスタッフに(政治資金を)管理してもらってきた」。記者会見でしぼり出すような声で語った小渕優子前経産相の目は潤んでいるように見えた。「地バン、看バン、カバン」の三バンを労せずして手に入れる世襲議員は選挙で圧倒的に強い存在だ。しかし、その世襲議員にも思わぬ落とし穴があったことを今回の「小渕辞任劇」は示している。
世襲議員が地元からもっとも期待されるのは、地盤である後援会を分裂させないということだ。政治家の後援会は、選挙区の有力な企業や業界・団体、さらには地方議員を組み込み、国会議員をトップとする利権構造を作り上げている。後継をめぐって有力地方議員や秘書などが争い、後援会が割れてしまえば、国の予算や補助金を引き出し、さらには陳情処理のノウハウまでも知り尽くしている組織が機能しなくなる。互いの既得権のために後援会をそっくり残すことが最優先されるのだ。そのために、「多少出来は悪くとも、息子(娘)にすればおさまりがいい」と子供におはちが回ってくる。
父親も、苦労して大きくした後援会を赤の他人には譲りたくないという、たたき上げの中小企業オーナーのような心情になって、公職である政治家の座を子供に継がせようと動く。こうしていまや、自民党は3割以上が世襲議員。政治が家業という「世襲天国」になっている。
周りは先代からの古参秘書や有力後援者ばかり。自分は神輿の上に乗っただけ。これでは、選挙区支部や資金管理団体、政治団体のカネの流れを自らチェックすることなどないだろう。古手のスタッフに全てお任せで済んでしまえば、確認しようという気さえ起きなかったに違いない。小渕氏の「子供のころから一緒に過ごしてきた…」はそれなりに実感がこもっている言葉だった。
さらに、今回の小渕氏のケースは地元・群馬の政治事情も背景にある。
中選挙区時代、父親の小渕恵三元首相の地元は高崎市を中心とした群馬3区。自民党のライバルは福田赳夫、中曽根康弘両元首相、社会党も山口鶴男元書記長という大物議員が票を食い合い、「上州戦争」とさえいわれた選挙区だった。福田、中曽根という首相を狙う派閥領袖に挟まれ、歳が下の小渕氏は選挙では常に苦戦した。二人に大きく離され、一度は全国最少得票で当選という屈辱も味わった。「俺はビルの谷間のラーメン屋だ」と自嘲していたほどだ。
吾妻郡が地盤ということもあり、大票田の高崎市に選挙事務所すら出せなかった。県議会では福田派と中曽根派が厳しく対立していたが、数少ない小渕系議員は小渕派として活動することも許されなかったのだ。
福田、中曽根両氏の強固な後援会にはじかれながらも、地元で落ち穂ひろいをするように一票一票積み上げ、はいずり回るようにして後援会を作り上げてきた。1992年の経世会(竹下派)分裂で派閥領袖に担がれ、98年には首相に就任。選挙制度も変わり、渋川市や富岡市などを含む群馬5区に腰を落ち着けてからは選挙の心配もなくなった。
しかし、福田、中曽根両氏を中心とする激しい「上州戦争」に巻き込まれ、苦労して後援会を作り上げてきた経験から、組織が大きくなった後も活動のやり方を変えられなかった。先代の時から大型バスを連ねて観劇などの東京見物を続けてきたが、後援会メンバーから毎年楽しみにしているとの声が出ればなおさらだ。中曽根氏の後を継いで政治家になった弘文氏(参院議員)の長男が衆院の選挙区から出馬を探る動きを見せており、後援会活動に隙をみせられないという事情もあっただろう。
小選挙区比例代表制になり、ザル法といわれつつも政治資金規正法がそれなりに強化され、政治を行う土台と環境は変わりつつある。そういう中で、相変わらずの身内の都合で世襲に選ばれ、会計処理には無関心。しかも旧態依然たる「上州戦争」の名残りをそのまま引きずってきたツケが小渕氏の足をすくった。
将来の女性首相候補などと持ち上げられてきたが、政治のイロハで躓いた。まずは自分自身の足元から見直さないと復活は茨の道だ。
(平林壮郎)
写真:YOUTUBEより