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【浪江町ルポ】地域を家族をバラバラにした原発事故~募るふるさとへの想いと国や東電への怒り

 華々しく全面開通した国道6号。しかし、約半年ぶりに訪れた浪江町には高濃度汚染が依然として残り、住民たちの怒りと哀しみが渦巻いていた。家族や親戚、地域の結びつきは破壊され、一時帰宅で少しでもわが家が朽ち果てるのを食い止めることくらいしかできない。そして、津波被害から見つかった泥だらけの品々たち。もう3年半。まだ3年半。「浪江町の3.11」はまだ続いている。

 

【復興住宅や自宅除染への葛藤】

 4月で還暦を迎えた男性は、葛藤が続いている。「復興住宅の案内が届くのだけれど、入居する気持ちになれないんだよ。命は二の次、経済優先で原発を稼働させ続けてきた結果がこれ。しかも原発事故後は国にも東電にも騙され続けてきた。なんだか彼らに尻尾を振る犬になるようでね…」。

 

 避難先となっている伊達市内のアパートは、借り上げ住宅としての「みなし仮設住宅」のため今のところ家賃は無料。しかし、いつ打ち切られるか分からない。この3年間で手にした賠償金は600万円ほど。90歳近くになった母親との二人暮らしでは、復興住宅に入った方が良いのではないかとの想いもある。

 

 知人の女性は、やむなく復興住宅への入居を決めた。県外避難した子どもたちが「一緒に住もう」と言ってくれたが、家族が1人増えれば少しでも広い部屋を借りなくてはならない。その家賃負担を考え、独りで復興住宅に暮らすことを選んだという。「家族をバラバラにしたのが原発事故」と男性は語気を強める。

 

 自宅の空間線量は依然として3-4μSv/hある。しかし、地区の分類は「居住制限区域」(20mSv/年超、50mSv/年以下。空間線量率が3.8μSv/h超、9.5μSv/h以下)。そのため、得られる賠償金も「帰還困難区域」の住民より少ない。査定では、自宅の評価額は137万円だった。「こちらの事情で売却するならともかく、原発事故で無理矢理わが家を追い出されてこれはないよ。どうやって新しい住まいを用意しろって言うんだ」と怒りをあらわにする。自宅の除染に関する通知が来たが「除染をしたって戻る気持ちが無いんだから無駄だ」と同意書類へのサインはせずにいる。

 

 「とにかく帰らせようという国や東電への反発があるんだよね。われわれ住民の健康なんて考えていないでしょ」と男性。「もちろん、浪江は大好きだよ。道路標識通りに車を走らせれば故郷も自宅もあるのに許可無しでは入れない。そんな哀しいことはないよ。つらいよ」と目に涙を浮かべた。

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津島地区など「帰還困難区域」に分類された国道114号沿いは、今も高濃度汚染が続く。同行取材に協力してくれた男性は「浪江町は好き。でも、これだけ汚染されては、除染しても戻る気持ちはない」と話す

【老舗旅館「移築したい」と涙】

 津島地区から本宮市に避難中の男性(67)は、妻とともに月1回の一時帰宅をしていた。老舗旅館の4代目。自宅や旅館は揺れによる損傷はほとんど無かったものの、地区全体が「帰還困難区域」(50mSv/年超、空間線量率が9.5μSv/h超)に指定されているため、営業再開どころか故郷での生活さえ見通しが立たない。「自宅は惜しくないんだ。でもね、この旅館だけは何とか残したい。移築したいんだけど、東電はそんなことは認めないからね」。それまで笑顔交じりに話していた男性も、この時ばかりは涙をぬぐった。

 

 区長も務めるため、原発事故後は区内の民家を廻り、定期的に放射線量を測ってきた。「うちで一番高かったのは雨どい直下で750μSv/hだなあ」。旅館の玄関前は、今でも高さ1メートルで1μSv/hを少し上回る。「地表真上だったら、10μSv/hなんていくらでもあるよ」と苦笑い。「政府の考え方は、住宅周辺と20メートル圏内の山林を除染したらもう大丈夫というものだけれど、見てごらん、ここは山に囲まれているんだよ。子どもたちは山で遊ぶし、キノコや山菜など山の幸もふんだんにある。自宅周辺だけで生活しろっていうのかね」と憤る。

 

 地域住民はバラバラになってしまった。「あの家は須賀川、こっちは福島市…。決して豊かではなかったが、協力し合って頑張って来たんだ。その生活を壊された」。茶飲み話に花が咲いた昼下がり。それが今や、車で1時間かけないと出来なくなってしまった。破壊された地域の結びつきをいかにして維持していくか。「浪江町には400以上続く『田植え踊り』という伝統文化があります。ただでさえ少子高齢化と過疎化で継承が課題だったところに原発事故。どうやって受け継いでいくか非常に心配ですよ」と話す。

 

 放射性物質の拡散で、家庭菜園も汚染されてしまった。「本宮で庭仕事をしていても気力がわかないんだよね。何をしているんだろうって」。一変した生活にため息ももれるが、損害賠償の話になるとひと際口調が強くなった。

 

 「原発事故のおかげで被災者が儲かっているかのような印象もあるかもしれません。でも、現実は財物賠償だけでは足りず、精神的賠償のお金をつぎ込んで避難先で家を建てている状態なんです。慰謝料を足さないと新しい生活が始められないなんておかしいでしょ」。

 

 妻は、自宅周辺に除草剤を撒いていた。いま出来ることは、住み慣れた我が家をせめて荒れ放題にしないことくらいだ。

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津島地区の老舗旅館。経営者の男性は「自宅は惜しくない。旅館だけでも移築して残したい」と涙をぬぐった

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津島稲荷神社の西参道。手元の線量計は1.7μSv/h前後だった

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浪江駅前の新聞専売所。2011年3月12日の朝刊が積み上げられたまま3年半が経過した

【持ち主を待つ「思い出の品」】

 すっかり色が変わってしまったランドセル。泥だらけの携帯電話。汚れてしまったぬいぐるみ…。町中心部から国道6号を双葉町方面に少し向かった「双葉ギフト」で、津波の直撃を受けた建物跡などから見つかった「思い出の品」が展示されている。

 

 「先日、震災後初めて請戸地区を訪れたというご夫婦が、ここで娘の記念写真を収めたアルバムを見つけて、感激していました。この3年間、怖くて来られなかったそうです。あれだけの津波に襲われたんですからね」と株式会社安藤・間の担当者は話す。

 

 今も、日々のガレキ選別作業で次々と品物が見つかる。それらを少しでもきれいにし、名前が確認できるか所有者特定に結びつくメモや特徴などが無いか確認し、展示する。この1カ月で400人以上が訪れ、231点が引き取られていったという。

 

 小学生の名札やトロフィー、プリクラから、泥だらけになったカメラや漁船の名前が入った旗、掛け軸、野球のグローブや絵の具セット。静まり返った店内で引き取りに来てくれるのを待っているかのようだが、持ち主が亡くなっている可能性もあると思うと胸がつまる。「今のところ、来年3月末ではここで展示する予定です。一品でも多く持ち主の元に戻って欲しい」と担当者。原子力被災だけでない浪江町の現実が、ここにある。

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国道6号沿い、「双葉ギフト」の店舗を利用した「思い出の品展示場」。これまでに231点の写真などが所有者の手に戻ったが、依然として590点が持ち主の引き取りを待っている

 

(鈴木博喜/文と写真)<t>