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「満蒙開拓団」悲劇の映画、年末公開へ

 安倍首相らの政権が、如何に戦犯を英雄視し歴史を変えようとしても、戦争の犠牲になったのは数多くの一般国民でありA級戦犯たちではない、という現実は否定できない。

 

 30年代から45年まで国策として推進された「満蒙(現在の中国東北3省と内蒙古自治区)開拓団」、これも栄光とは無縁、悲惨な戦争の実相の一部であった。

 

 この「満蒙開拓団」の悲劇と、戦後の中国残留孤児問題、戦争指導者の無責任と戦後日本政府の無為無策に対して立ちあがった一人の元開拓団員の生涯を取り上げた映画が、今年中に完成・公開される。

 

 「満蒙開拓団」は、不況下の農村の青・壮年を当時の満州、内蒙古などに集団入植させ、いざという時は戦いもさせる“屯田兵”として1930年代から45年まで進められた。それは現地の農民の土地を強制的に安値収用した上での入植だった。

 27万から30万以上の人たちが中国東北部一帯に送りこまれたが、戦争末期のソ連参戦で多くの人々が犠牲になり、無事帰国できた人は半数以下の11万人程だったと言われる。

 国民を保護すべき関東軍はいち早く撤退、取り残され引き揚げ逃げる過程で子どもを含む多くの人々が犠牲になった。また多くの子どもたちが中国人に預けられ育てられ、後日“中国残留孤児”となった。

(この国策を推進した政府指導層で戦後、明確に責任を取った者はいない)

 

 満蒙開拓団を取り上げた映画「望郷の鐘―満蒙開拓団の落日―」(山田火砂子監督)は“最後の開拓団”の悲劇と、生き残り帰国、戦後“残留孤児の父”と言われた山本慈昭さんの生涯を追ったもの。

 

“最後の開拓団”は、敗戦の僅か3か月前の45年(昭和20年)5月、政府の方針を受けた長野県伊那谷の3つの村から現地の事情も知らされず送りこまれた。

 そのうちの一人、山本慈昭さんは寺の住職で国民学校の教員、戦局が極度に悪化し、現地の危険が増しているのを察知していたが、地元有力者の強い説得に抗しきれず家族と共に加わる。

 

 現地には、校舎や住宅も焼けたまま教科書も無い。山本さんの想像を超える荒廃した状況を改善する間もなくソ連参戦の報。

 

 雨天をついた逃避行中、山本さんたちは一時、親切な中国人の村長に救われる。

“あなた方は日本政府の「王道楽土」の政策に乗せられてきた侵略者だが、軍人でもない人々が地獄の道で苦しんでいるのを見て、見ぬふりをすることは人の道として赦されない”と、村長の言葉が山本さんの胸に刻まれる。

 

 山本さんたちは、その後進駐したソ連軍管理の収容所に入れ、妻子と引き裂かれシベリアに抑留される。

 

 2年後、解放され、引き揚げた港でトイレの壁に書かれた怒りの一文が目に焼きつく。

“国を信用するな! (疎開のための満蒙)開拓なんて嘘をつき、殺されに行ったようなものだ。騙すな!”

 

 単身故郷に戻った山本さんが始めたのは、天竜川の平岡ダム建設工事に強制労働の果てに死んでいった中国人の遺骨を収拾、慰霊する活動だった。

 

 その後、旧満州での遺骨収集を中国政府に働きかけると、65年中国残留日本人から一通の手紙を受け取る。日本国内の肉親捜しを依頼するものだった。

 更に69年、妻と二女は死んでしまったが、長女や阿智村開拓団の子どもたち16人が、現地の中国人家庭に引き取られ生きていることを知る。

 山本さんが“残留孤児捜し運動”に大きく踏み出す一歩だった。

 当時の日本政府(厚生省)は、中国に残された日本人・子供の安否確認を要請する国民から送られた手紙を無視、山本さんにも冷たい対応だった。

 

 しかし、山本さんの孤立無援の働きかけは数年を経て徐々に世論を盛り上げ、70年代末ようやく国を動かすようになった。

 81年以降、代々木公園内の青少年センターで生き別れとなっていた残留孤児の人たちと老父母、兄弟、親族との対面の場が設置され、何組もの涙の再会が報道された。

(筆者も茶帽子をかぶる山本慈昭さんをお見かけした。報道陣にも目をうるませ取材する者がいた)

 

 82年、山本さんが黒竜江省で長女と再会を果たした時、山本さんは80歳だった。

 

 この映画は、山本さんが住職を務めた長岳寺のある長野県阿智村などで撮影。

 長野県は全国で最も多い3万7千人以上を送りこんだ県、阿智村からは215人が入植したが、帰国できたのは山本さんら13人だけだった。

 

 昨年4月、阿智村に人々が寄付を募って「満蒙開拓平和記念館」が設立された。(国の予算では無い)

 

 記念館には、入植者の苦難と、敗戦後の引き揚げの苦しさを伝える資料、映像が展示されている。引き揚げ者だけでなく、開拓団の生活と逃避行を目撃した現地の中国人の聞き取りなどを行い、歴史と平和を維持することの大切さが判るようになっている。

 記念館にはまた、中国残留孤児の帰国に生涯を通して尽力した山本さんの活動と業績を伝える資料も展示されている。

 

 この映画の完成前に、NHKが9月2日夜10時からの衛星第一放送で紹介していた。ここで映画に出演した小学生の声を紹介していたが、満蒙開拓団の惨劇を地元阿智村の子供たちでさえも余り知らないのに驚く。

 

 NHKの取材班は、中国東北地方にも飛び、満蒙開拓団の悲劇を自費で調査している医師の胡暁慧さん(70歳)の言葉を紹介している。

“ソ連軍侵攻で犠牲になったのは(戦争指導者)戦犯ではなく一般の日本人だ……”と。

 

 取材班はまた、国交回復のかなり前の63年、日本人民も政府が引き起こした戦争の犠牲者であるとして、中国政府が日本人犠牲者の墓地を建立し、丁寧に維持管理されているのを紹介している。

 淡々とした、短いが要点を外さないリポートだった。

 

 この映画は間もなく完成し、この年末に先ず長野市、松本市、飯田市で公開、来年初めには全国で公開されるという。

 

 安倍首相らにも是非とも見て貰い、誰がこの悲劇を引き起こしたのかを考え、先の大戦中の現実の一端を理解して貰いたいものだ。

 

(大貫康雄)

PHOTO by すいっぱ (投稿者自身による作品) [CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], via Wikimedia Commons