【42カ月目の東松島市はいま】それでも野蒜に暮らす~「津波の恐怖を忘れないと生きて行かれない」
今も鮮明に残る津波への恐怖。水の冷たさ、勢いは忘れない。だが一方で、3年の月日は少しずつ恐怖心を薄れさせていった。生きて行くために。女性は言う。「忘れなければ、生きて行かれないのよ」。仙石線・野蒜駅(宮城県東松島市)を1年ぶりに訪れた。被災の爪痕生々しい中に、ポツンと建つ真新しいコンビニ。永田町に飛び交う「復興」がいかに空虚か、実感させられた。
【コンビニが開店した野蒜駅】
仙石線・松島海岸駅から乗った代行バスを降りる。1年ぶりに訪れた東松島市・野蒜駅は明るかった。正確に言えば、駅「だけが」明るかったのだ。1年前、津波で激しく破壊され尽くした「ヤマザキデイリーストア」は取り壊され更地になり、変わって「ファミリーマート」が東松島市の要請を受ける形で今年5月28日に開店した。「午前7時から午後8時までの変則営業です」と男性店員は話した。
客の多くは復興工事の作業員だ。朝からニッカポッカ姿の作業員たちが行き交う。駅周辺では、仙石線の敷設工事を始め、多くの作業員が汗を流す。運河を挟んだ海側には敷設工事で生じた土砂がベルトコンベアで運ばれうず高く盛られている。70台ものダンプカーが行き交い、警備員が忙しそうに交通整理をしている。「昼時はお弁当を買う作業員の方たちで店内がにぎわいます」と店員は笑った。
店舗に併設されたカフェコーナーには、未曽有の津波被害を語り継ごうと写真が展示されている。円いテーブルがいくつも置かれているが、のんびり座っているのは私と休憩中の店員だけ。店舗の裏手に廻れば、利用されることのなくなったホームが震災直後の姿のままで遺されている。傾いた看板やひびの入ったホーム。途中で途切れた線路には雑草が生えている。ここだけ時間が止まったかのようだ。幼稚園の送迎バスが駅前に停まり、園児を1人、乗せた。
今年5月、ファミリーマートが開店した仙石線・野蒜駅。利用者の多くは復興工事に携わる作業員。カフェコーナーには大地震と津波による被害を語り継ぐため写真が展示されている=東松島市野蒜
【濁流の勢いに身がすくんだ女性】
「身体が動かなくなっちゃったの。水の高さは膝くらいだったかしら。でも怖くて怖くて、手すりにつかまったまま動けなかった。消防の人に放り投げるように階段の方に動かしてもらって、ようやく我に返ったわ」
野蒜駅からほど近くに暮らす女性(67)は時折、目に涙を浮かべて津波の恐怖を振り返った。
経験したことのない激しい揺れに、直感的に「津波が来る」と考えた。そこに「女川で6mの津波」というカーラジオからの声が耳に届いた。「まさか、(仙石線と並行する)東名運河を越えることはないだろう」と思いながら、野蒜小学校の体育館に向かった。近くの老人ホームから、車いすのお年寄りたちが続々と避難してくる。体育館に着いた頃には、ここまでやって来るはずのない波が、足元まで来ていた。
教室に逃げよう━。そう思った時には、両膝が水に浸かっていた。階段までわずか2m。しかし、濁流の勢いは思いのほか強い。恐怖のあまり、気を失っていたのかもしれない。やっとの思いで3階の教室にたどり着き、児童の体操着を借りて着替えた。下着までびっしょりだった。30分ほど経ったろうか。ふと窓の外を見ると、見慣れた景色が一変していた。
「一旦、水が引き、流された乗用車やガレキが散乱していたわ。うちも5台の車はすべて流されちゃった」。自宅の2階は、いつのまにか臨時避難所になっていた。
女性の友人は、つい数時間ほど前まで談笑していた知人の死を目の当たりにした。近所の女性は、夫が家財道具に埋もれるように流されていくのを、ただ呆然と眺めるしかなかった。自分だけが助かったという自責の念。「目の前にいたってどうすることもできないのよね。思い出すとつらいわ」。津波が落ち着くと、車いすでベルトをしたままのお年寄り、マイカーの運転席の男性など、多くの遺体が見つかった。自宅2階で、3人もの遺体が発見された人もいるという。
あれだけの恐怖を経験し、それでも移り住むことなく自宅に再び暮らしている。一部損壊で済んだ自宅は、真新しい木材で補修されている。すぐ隣に暮らしていた子ども夫婦は高台に移り住むことになった。
「もちろん、震災直後はこんな所に住みたくないって思ったわ。でもね、人間って3年も経つと忘れてしまうのね。結局、ここで暮らして行くことにした。そうね、忘れないと生きて行かれないのかしれないわね」
女性は野蒜小学校の校舎に目をやった。多くの命が奪われた体育館は、もう無い。
津波で大きく損傷した民家
住民の間では、津波が東名運河を越えることは無いと言われていたという
野蒜小学校のさらに奥、高台に建設中の仙石線。来年6月には開通予定だ
【重い移転費用、甘くない再出発】
野蒜小学校裏の高台に建設中の新しい仙石線。2015年6月にも代行バスが終わり、仙台~石巻が開通する予定だ。運転士は「来年の今ごろは乗っていただけますよ」とうれしそうに話した。
少しずつ復興へ前進しているように見えるが、野蒜小学校近くで店舗を営む男性は「うちは高台で津波の被害はなかったから良い。でも、平地の家は軒並み津波でやられてしまった。被害に遭った人々は当時よりもっと悲惨な状態だよ。時間が経つにつれて現実的な問題が出てくるからね」と語る。別の女性は「被災地ってたくさんのお金をもらえると思っている人がいるかもしれないけれど、違うよ。確かに義援金はいただいたし、大変ありがたかったです。感謝しています。自宅を高台に移転するにしても、土地は30年間無償で借りられるけれど新築費用はほとんど自己負担。甘くないですよ」と強調した。
先の女性は震災以降、津波注意報が発令されるたびに高台に逃げているという。「結局、大した波が来ないから大げさなのかも知れないけれど、水の怖さは身に染みていますからね。東京の人たちも、50cmの津波だからといって馬鹿にしてはいけませんよ」。
(鈴木博喜/文と写真)