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第一次大戦で破壊されたランス大聖堂の百年

 パリの東ランス(Reims)、日本ではシャンパーニュ・アルデンヌ(Champagne-Ardenne)地方の中心都市、シャンペンの産地として知る人も多いだろう。

 ランスは第一次大戦激戦地となり歴史を刻む大聖堂がドイツ軍砲撃で破壊された。

 大戦勃発百年の今年は、大聖堂内で破壊と修復、敵対と和解の百年を示す写真展が開かれている。説明に仰々しさは無く、落ち着いた雰囲気の中を訪れる人たちがゆっくりと歴史を振り返っている。

 

 ランス大聖堂は496年フランク族の王としてクロビス(Clovis)が洗礼・戴冠、1429年からルイ(Louis)7世から1825年のシャルル(Charles)10世までフランスの歴代国王が戴冠式を行うフランス・ブルボン王朝の歴史と深くかかわる。

(最もシャルル10世の時は既にフランス社会が変化、豪華な戴冠式が公金の無駄使いだ、と批判され即座に王位を追われる)

 ランスの大聖堂はパリのノートルダム大聖堂、シャルトルの大聖堂と共に代表的なゴシック建築として世界遺産に登録されている。

 

 しかし1914年、第一次大戦勃発の直後からドイツ軍が占拠し、野戦病院として利用される。その後、周辺の森に撤退したドイツ軍によって町と共に砲撃を受け、市民に大勢の死傷者が出、大聖堂自体大きな被害にあった。

 

 第二次大戦末期には、アイゼンハワー(Dwight D.Eisenhower)連合軍最高司令官が、工業高校の一室に司令部を置き45年、ナチス・ドイツ軍のヨードル(Alfred Jodl)司令官が降伏文書に調印した場所となる。

 

 写真展は、「第一次大戦中野戦病院になった大聖堂と周辺広場まで軍馬の飼料の枯れ草が敷き詰められ横たわる傷病兵の姿」、「その後、森に撤退したドイツ軍の砲撃で破壊された大聖堂内外の各部分」、「その後の修復作業の過程」などが時間を追って紹介されている。

 

 写真展はそれだけでなく、フランス・ドイツ両国が敵対を克服し和解、そして緊密な協力関係を築く戦後の動きで終わっているのが印象深い。

 第二次大戦後の63年、フランス・西ドイツ友好条約(所謂エリゼ条約)締結の際、ドゴール・アデナウアー両首脳が訪れ両国の友好条約を締結、和解と協力を誓った場所で、その映像をしっかりと紹介している。

(大聖堂正面玄関前の石畳には両首脳の名が刻まれている)

 

 一つの写真展にも、平和と協力を確固たるものにしたいという両国をはじめ、西ヨーロッパ各国関係者の真摯な思いが伝わってくる。

 

(大貫康雄)

PHOTO by Ludovic Péron (Own work) [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html), CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/) or CC-BY-SA-2.5-2.0-1.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5-2.0-1.0)], via Wikimedia Commons