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【原発事故と障害者】バリアだらけの避難~田村市から京都に避難した鈴木絹江さんに聞く

 想像してみよう。

 ヘルパーの介助が必要な人が、放射性物質の拡散から素早く逃れることができるだろうか。

 普段、やっとの思いでトイレを利用する人が、混乱渦巻く避難所で自分のペースで用を足すことができるだろうか…。

 自ら「ビタミンD抵抗性くる病」で車いす生活を続けながら、福島県田村市の特定非営利活動法人「ケアステーションゆうとぴあ」理事長を務める鈴木絹江さん(63)に、災害時の障害者ケアがいかに遅れているか、避難先の京都市で語ってもらった。

 

【「どこか大きな街に行ってください」】

 これまで、どれだけ多くの「バリア」にぶつかってきたことか。それは歩道と車道の段差であり、階段であり、トイレ。そして人の心。「旅館を利用する時、他の客に障害者が宿泊していることを悟られないためにわざと玄関から見えない部屋に通されたり、トイレの前の部屋にされたりすることは珍しくないですよ」と鈴木さん。そういった社会構造が如実に表れたのが、東日本大震災であり福島第一原発の事故だった。

 重度の障害を抱える3人を連れて昭和村を目指したのが2011年3月14日。その前日まで、原発事故を知らなかった。運営する自立支援施設のある田村市には、浜通りから続々と避難者が押し寄せていた。障害者や高齢者のためにトイレや風呂を提供したが、限界に達していた。行政ぐるみの支援を申し入れに市役所に赴くと、戦場のように混乱していた。「5000人もの人が体育館に来ると言われても…」。市幹部の愚痴が、準備不足を表していた。

 爆発事故の知らせとともに飛び込んできた雨予報。「一秒でも早く逃げなさい」。本来、給料日は毎月20日だが、前倒ししてスタッフに手渡し、そう告げた。出産間近のヘルパーもいた。「雨に濡れてはいけない。絶対に14日中に逃げよう」と数名のスタッフとともに事業所を出た。昭和村に着いた時、時計の針は午前零時を回っていた。
 国民宿舎が受け入れてくれたものの、バリアフリーどころか「バリアバリバリ」。通された大広間に行くにも階段が立ちはだかり、トイレや浴場を利用するにも一苦労だった。村役場に問い合わせに行くと、職員は迷惑そうな表情を浮かべてこう、言ったという。「昭和村にはそんな施設はありません。どこか大きな街に行ってください」。結局、19日には新潟・月岡温泉のホテルに向かった。新潟を選んだのは「田舎には必ず食料の備蓄があるから」。観光協会で紹介されたホテルには、バリアも差別もなかったという。

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鈴木絹江さんの最近のテーマは「障害者の避難と防災」。原子力災害時、障害者が避難にどれだけ苦労するか、自身が一番良く分かっている=京都市西京区

 

【避難所に立ちはだかる〝トイレの壁〟】

 月岡温泉には、南相馬市小高区の女性を呼び寄せた。

 女性は震災後、市内の体育館や公民館に設けられた避難所で落ち着かない生活を送っていた。最大の課題はトイレ。元より、15分おきに薬を服用しないと尿が出ない。しかし、服用したら今度は頻繁にトイレに行くようになってしまい結局、避難所では1時間もトイレを〝占拠〟してしまうことになるという。周囲から受ける有形無形の圧力。自宅であれば自分のペースで利用できるトイレが苦痛の種となり、水分を摂らなくなってしまった。

 「自宅だからこそ、トイレも入浴も計算できるんです…。でも、重度の障害者はまだ良いです。車いすを利用していれば、誰が見ても障害者が避難所にいると認識してくれる。でも、知的障害者や精神障害者は外見では分からない。おとなしくじっと座っていることも多いから大人数の中に埋もれてしまう。避難所では無料で配られたお弁当をもらえなかったケースもあったようです」。避難先でヘルパーを用意するにも、苦労があるという。「言語障害が重い場合、日頃から介助して慣れたヘルパーさんでないと言葉を聞き取れない」。

 原子力災害では「屋内退避」が指示される。しかし、当然ながらヘルパーも屋内退避の対象。介助なしには生活できない重度障害者にとっては、命にかかわる問題だ。「屋内退避が必要な事故が起きたということは、もはや重度障害者にとっては避難をするしか選択肢がないということなんです。それなのにどうやって避難するか、避難先でどうやって生活をするか、まったくこの社会では考慮されていないのです」。

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路線バスに乗るのは、ノンステップバスの開発もあって以前と比べるとかなり楽になった。しかし、災害時の避難はこうはいかない。

 

【私たちは〝健常者の欠陥品〟ではない】

 「障害者のニーズは障害者が一番良く分かっている。障害者こそプロフェッショナルなんです」と始めた障害者の自立支援。原発事故による避難を機に、事業所を閉鎖しようと考えたこともあるという。「でもね、私がやめても利用者は福島に残るんです。立ち上げた責任もありますしね。それならば、福島県外に避難した障害者も残った障害者もどちらも支援しようと考えたのです」。

 避難先には沖縄県も候補に挙がったが、福島に定期的に通うことを考慮して京都を選んだ。「4号機に万が一のことがあっても、京都なら大丈夫だろう」。昨年10月、京都に移り住んだが、それまでは不眠が続くなど体調が悪化。もともと軽い体重が、23.5kgにまで減ってしまったという。「ここ(田村市)にいていいのか、皆を居させていいのか、そればかり考えていました。発熱や下痢、喉や頭の痛みも続きました。5回も救急搬送されちゃった」。現在は体重も戻り、かわいらしい笑顔も戻ってきた。
 「今の社会は、高度成長期に20歳の男性を基準につくられました。でも、もはやそれでは生きづらいんです。駅のエレベーターを見てください。何十年も交渉してようやく設置が実現したら、実際に利用しているのはもっぱらお年寄りやベビーカーを押すお母さんたちですよ。世の中にはいろんな人がいるという前提で社会をつくらないといけません」
 原発再稼働へ邁進する安倍首相。鈴木さんは「人の命を犠牲にするエネルギーは問題です」と話す。今月下旬には、川内原発のある鹿児島県薩摩川内市へ赴き、講演する予定だ。

 「いま、お金や人の使い方も福祉のあり方も、障害者の幸せにはつながっていません。もちろん、原発事故時の避難計画もね。障害者は〝健常者の欠陥品〟ではないんです」

 

(鈴木博喜/文と写真)<t>