スレブレニツァの虐殺でオランダ軍部隊(国連保護軍)にも責任の一端ありの判決
90年代の旧ユーゴ紛争の中でもボスニア・ヘルツェゴヴィナ(Bosnia-Herzegovina)紛争(内戦)では3つの勢力が血みどろの戦いを続け、特に東部と北部でスルプスカ(Srpska)共和国軍(セルビア人武装部隊)によるムスリム人虐殺が相次いだ。中でも東部セルビア国境に近いスレブレニツァ(Srebrenica)では95年7月8000人以上のムスリム人が殺される大虐殺が起きた。ここでオランダ軍主体の国連保護軍が保護を求めてきたムスリム人男性避難民300人余りをスルプスカ共和国軍の要求するままに引き渡し、虐殺される事件だ。
この裁判は、虐殺されたムスリム人の母親たち(Mothers of Srebrenica)がオランダの民事法廷に訴えていたもので、第一審判決では16日、オランダ軍に8000人余りの虐殺の責任は無い、と判断する一方で、“300人が虐殺された責任は、適切な防衛努力も抵抗もしないまま安易に避難民をスルプスカ共和国軍に引き渡したオランダ軍に責任の一端”があると認定し、オランダ政府に対し母親たちに損害賠償を支払うよう命じた。
安倍政権が集団的自衛権行使容認の範囲に、国連平和維持部隊の派遣も含めるようだが、今後たとえ平和維持部隊であっても目的とする避難民の保護努力に最善の努力をしない場合の責任は免れない、との判断が各国で多くなると見られる。
これからは平和維持部隊は、状況が如何に困難でも非難民救援と保護に全力を尽くしたか否かが問われることになるのを自覚するべきである。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争では、特にセルビア人のスルプスカ(Srpska)共和国内でムスリム人に対する呵責ない攻撃が相次ぎ、92年4月から94年1月にかけて東部フォチャ(Foci)で、92年4月北部プリイドル(Prijedru)で虐殺事件が相次いでいた。
スレブレニツァは93年4月、国連が保護する「安全地帯」とされ、町の北の郊外ポトチャリ(Potocari)には、国連保護軍としてオランダ軍部隊700人が派遣され活動拠点を建設した。
95年からスルプスカ共和国軍がスレブレニツァの町を包囲・攻撃が激しくなり、食糧や飲み水、医薬品も底を突き、餓死者が出始め、スルプスカ共和国軍の激しい攻撃に対し国連保護軍は殆ど戦わないまま状況は悪化の一歩を辿り、スレブレニツァ全体でムスリム人800人以上が無差別に虐殺された。
このうち、ポトチャリのオランダ軍の活動拠点には男性や少年たち300人余りが保護を求めてきたが、セルビア人武装勢力のムラジッチ司令官(後、旧ユーゴ戦争犯罪法廷に引き渡される)は、戦車や迫撃砲を動員してオランダ軍部隊に迫り、全員の引き渡しを要求。オランダ軍部隊はムラジッチ司令官の強硬姿勢に圧倒されるかのように、戦うことも、抵抗らしい抵抗もせずに保護を求めてきた300人余全員をスルプスカ共和国軍に引き渡してしまった。中には10代の少年もいたが、ムスリム人を連行するとスルプスカ共和国軍は直ぐに全員を容赦なく惨殺したという。
既にスルプスカ共和国軍に、装甲車を破壊されるなど活動を妨害されていたオランダ人部隊400人程だけで殆ど抵抗できなかった。各国部隊の連絡調整も円滑でなくNATO軍への支援や空爆要請も後手後手に。その空爆も悪天候のために中止されるなど国連保護軍側の平和維持目的が充分に果たせなかった。
明石康・国連旧ユーゴ問題担当・事務総長特別代表(当時)は、国連保護軍を旧ユーゴ全体で3万人増派の要請をしたが国連安保理はその1/4程の7600人の増派しか認めなかった。安保理自体も状況に的確に対応できなかったのである。
如何にオランダ軍部隊が孤立無援で不利な状況下に置かれ、またスルプスカ共和国軍のムラジッチ司令官が如何に強硬に引き渡しを要求していたとしても、なんの抵抗も試みないまま、保護を求めてきた人たち全員を余りにも安易に引き渡してしまったのか。
今回の判決は、何の抵抗も試みないまま保護下にあった人々を安易に敵がたに引き渡したことを“無責任”であると断じたものである。
オランダ政府は控訴するか否か検討中だが、原告のムスリム人の母親たちは正義を求めてヨーロッパ人権裁判所まで闘う、と言っている。
この裁判は、国連の人道目的の平和維持部隊である以上、如何に困難な状況に置かれても、保護を求めてきた避難民の安全と保護に最善を尽くす義務と、それを怠った場合の当時国政府の責任を初めて指摘、認めたものである。
日本が国連安保理決議に従って平和維持部隊を派遣する場合も、状況に応じた最善・的確な対応が厳しく求められることを覚悟するべきである。
(大貫康雄)
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