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世界遺産・富岡製糸場を訪ねて

 2014年6月に、日本で18件目の世界遺産となった群馬県の富岡製糸場と絹産業遺産群。筆者は世界遺産登録前から富岡製糸場見学の予定を組んでいたのだが、訪問月が7月ということもあり、観光客で大賑わいの様子を目の当たりにした。

 

 今回は荒船風穴や高山社跡、田島弥平旧宅などの絹産業遺産群は訪れなかったものの、明治5年から日本の産業化を勧める為に主に旧士族の工女たちが貢献してきた富岡製糸場を見るだけでも歴史の重みを感じる事が出来た。

[caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-B <東繭倉庫。一階は事務所として使用され、二階に繭が保管されていた。フランスからの輸入品であった高価なガラス窓は、一階部分にしか使用されていない。>[/caption]

 

 富岡製糸場は日本で初めて設置された官営の模範機械製糸場で、伊藤博文と渋沢栄一が尽力し、横浜のフランス商館より派遣されたポール・ブリュナが故郷リヨンの風景を瞳の中に思い描きながら、富岡での建設を推し進めたという。

  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-C <リヨンの風景と似ている?すぐ傍の鏑川の水を使用していた>[/caption]
  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-D <世界遺産の決め手となったという、寄宿舎>[/caption]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 個人的に印象に残ったのは、工女への待遇は「日曜休み」「1日8時間程度の労働」「食費/寮費/医療費の負担なし」「つまり給与はそのままお小遣いに」と当時の労働環境を考えればかなり良かったものの、実際の操糸場の中はAKU—暑い、臭い、うるさいーという環境だったそうで、その為脚気(かっけ)や胃腸の病気になることも少なくなかったという。(しかしあえて女工哀史という言葉は使わないでおこうと思う。特に創業初期は工場というよりも寄宿制の女子繊維工業専門学校という認識の方が強い)。

[caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-E <操糸場の傍には診療所がある>[/caption]

 

 一方で、操糸場の屋根はトラス構造で作られており、三角の形にする事で強度を保ち、柱を立てずにすむので空間としては広かったようだ。また操糸場以外でもいわゆるフランス積み(正確にはフランドル積み)というフランス式の煉瓦積みがされるなど、当時にしてはかなり先進的な建築を手がけていたようである。また当時の工場内には購買所があり、フランス製の香水や化粧品、服飾品などを工女は給与で購入、中には月賦にして上流の出の工女やフランス人に似せようとする人もいたという。

 

  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-F <操糸場>[/caption]
  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-Fa <操糸場の入り口>[/caption]
  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-G <操糸場の機械>[/caption]
  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="240"]tomioka-H <三角トラス構造>[/caption]
  • [caption id="attachment_24802" align="alignnone" width="180"]tomioka-I <フランス式の煉瓦積み>[/caption]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その中で、またフランスの文化の影響をも受けながら、工女たちが高品質の糸を織り成し続けたからこそ、赤字ではあったものの日本の貿易が成り立ち、近代化が推し進められたのだと改めて感じとった。建築も含め、世界最大規模の製糸場であったことがうかがえる。

 

 さて、洋装が主流になった現代社会と海外からの低価格生糸や絹製品の流入等から絹需要が減少しつつあると言われている中で、群馬県には奮闘している養蚕業者が未だに存在する。

 

 蚕は天の虫と書く。

 周辺地域で繭の生産が盛んであったためその調達が容易であったこと、広大な土地をはじめ石炭、石、木材、水が入手出来たこと、外国人指導の工場建設に地元の同意が得られたこと等から富岡製糸場は誕生したが、それ以外の場所ではどのような養蚕をしてきているのだろうか。

 

 次回の記事で、富岡製糸場から車で約1時間ほどのところにある、野生の天蚕を育て続ける養蚕農家を紹介する。

 

(成瀬久美/文と写真)