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ベルリンの壁崩壊の導火線となった月曜デモ主宰の牧師死去

 25年前の1989年は、中国では流血弾圧の惨事となった天安門事件が起き、一方、ベルリンの壁崩壊・旧東独での無血革命に象徴される東ヨーロッパ民主化が相次ぎ、その後の自由と民主化の歴史で東西が明暗を分けた年、歴史の転換点とも言って良い年だった。

 そのベルリンの壁崩壊、そしてドイツ再統一への導火線となったライプツィヒの月曜ミサとデモを82年以来主宰し続けた聖ニコライ教会の元牧師クリスティアン・フューラー(Christian Fuehrer)氏が肺・呼吸器系疾患のため6月30日死去した(71歳)だった。

 

 フューラー牧師(ルター派プロテスタント)主宰の月曜ミサ(祈祷集会)は、バッハゆかりの聖ニコライ教会で1982年9月20日に始まった。米レーガン大統領が“(抑止でなく)使える”核ミサイルを配備し、東西の対決姿勢を強まる冷戦の真っただ中、参加者はわずか200人程だったと言われるが“平和の堅持”を求めるミサを開き、その後、フューラー牧師の月曜ミサとデモは回を追うごとに参加者が増えていった。

 

 87年9月には、月曜ミサ参加者と共に、“紛争当事者への武器の供与の禁止”などを訴え、東独各地で行った平和行進を組織化するなど活動幅を拡大して行き、活動は“非暴力(Keine Gewalt!)”を訴え、整然とした活動と対話に徹し、88年2月19日には、ミサの場で自由と民主化を求める国民の声を代表する「東独に生き、留まる」と説教、多くの参加者を集めたのだった。

 

 東独政府・秘密警察は、フューラー牧師たちへの圧力を強めていくが、自由と民主的な社会を叫ぶ声は強まり、ミサとデモへの参加者は増え続け、89年に入ると東独当局は、聖ニコライ教会に通じる道路を封鎖して出入りを制限、教会内部と外で参加者を相手構わず逮捕するなどしたが、参加者は増える一方だった。

 

 そして、体制側が東独建国40周年の式典を挙行した2日後、89年10月9日の月曜ミサとデモには7万人が参加した。

 

 東独政府は、教会内にドイツ社会主義統一党員100人を動員。現地の軍と警察に強行策を指令するが世界的な指揮者クルト・マズア氏らが共に働きかけるなどしたこともあり軍も警察も命令を拒否。

「(兵士であれ警察官であれ)我々は(皆等しく)国民だ!Wir sind das Volk!」と軍兵士や警察官に呼び掛けながら、ライプツィヒ市街の環状道路と周辺を火を灯した蝋燭を手に30万人が埋め尽くして整然とデモ行進し、一滴の血も流れなかった。このデモが東独全体に大きな影響を与えのだった。

 

 このミサとデモの後9日後の10月18日、時の最高権力者ホーネッカーが退陣。東独体制は一気に崩壊の度を速め、11月4日首都東ベルリンで100万人デモ、そして11月9日夕から10日にかけ人々が東西を分断していたベルリンの壁に押し掛け、崩壊する。

 

 急激な展開の過程で一滴の血も流されない“無血民主革命”だった。

 フューラー牧師の生涯が強い印象を与えるのは、その後の師の揺るぎない信念に裏打ちされた行動だった。

 

 12月2日、米ブッシュ(父)、ソ連ゴルバチョフの両首脳がマルタで会談し、冷戦の終結を宣言。90年10月にドイツ再統一が実現する。

 アメリカが唯一超大国になり、アメリカの市場至上主義・ネオリベラリズム経済の“ギャンブル資本主義が世界を席巻”し始め、旧東独では特に失業者が増大。社会保障費の切り下げで貧富の格差が拡大し、統一後ドイツの最大課題になって行くのである。

 

 フューラー牧師は90年3月に8年間続けてきた“月曜デモ”を止めるが、再統一後、人々を襲ったのは企業の利益優先と貧富の格差拡大だった。

 フューラー牧師は、“ライプツィヒ・失業者のための教会イニシアティヴ”運動を設立、“資本主義は道徳的に破たんしている”と批判し、社会から“取り残され見捨てられた人たち”の擁護・支援活動に乗り出す。

 

 NYタイムズ紙によると94年の取材に対しフューラー牧師は、“容赦なき競争と金銭欲が横行し、共に生きる社会の一体性が失われている。誰もが人生が不安定で見通しがつかないという恐怖と抑鬱に苛まれている”(筆者意訳)と答えている。

 

 フューラー牧師は、ギャンブル資本主義に各国政府までが巻き込まれ、ドイツ政府も社会福祉制度を悪化させる政策を取る2004年、月曜デモを再び始める。

 しかし、2008年肺呼吸器系の疾患に苛まれ牧師を引退。闘病生活の中2009年、“平和革命財団”を設立するが翌年には更に体調悪化していった。

 

 ベルリンの壁崩壊から25年の今年は、4月に“バイロイト寛容と人道賞“を、死の直前の6月には当時の活動家と共に”ドイツ連邦国家賞“を贈られるが、病床の師は授賞式に出席できず、家族が代理出席した。

 

 ライプツィヒの地元紙が、フューラー師が“(非現実的な)社会的夢想家で救い難い楽観主義者だ”と批判されていると聞いたところ、師は“月曜ミサとデモを続けていた80年代にも同じようなことを言われた”。

”蝋燭を灯して祈った処で何か変えられるのか?!“と“しかし歴史は別の展開をしたではないか!“

 

 フューラー師は、何時もデニムのジャケットを着て教会内外で気さくに動き回るので直ぐに見分けがついた。気取らず、しかし弱い立場に置かれた人たちへの支援の手を緩めることは無かった。

 

 (大貫康雄)

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