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100年前のサラエヴォ事件を機に起きた第一次世界大戦は、日本の本格的中国侵略の導火線となった

 1914年6月28日、時のオーストリア=ハンガリー帝国皇太子夫妻暗殺のサラエヴォ事件を契機に勃発した第一次大戦。列強各国の集団的自衛権行使の結果、想像を絶する激しい長期間戦争となり世界情勢が一変した。それを回顧するヨーロッパでの試みについては若干この欄で触れた。あの大戦への参戦は、その後“日本が帝国主義的な性格を強め対中国そして対連合国戦争、敗戦へと続く日本の歴史の大きな転換点”となった。
 
 日本の参戦は14年の8月、今様の集団的自衛権を取り決め“日英同盟”を理由に外務省タカ派が中立派を押し切り、8月15日、対独墺最後通牒、23日宣戦布告した。(イギリスは戦勝の場合は“山東省のドイツの権益を日本に譲る”と中国に相談もせず勝手に約束、日本の参戦を促している)
 日本政府は、表向きにはチンタオなど山東省のドイツ利権を中華民国政府への返還を求めた。日本陸海軍はチンタオや膠済鉄道などを攻撃占拠、ドイツ領ミクロネシアとニューギニアの島々を攻撃。11月はじめ、独墺軍が降伏する。(戦後、ミクロネシアなどは日本統治下となり「南洋庁」が置かれた。太平洋戦争でアメリカ軍占領下、テニアン、サイパンなどが日本本土爆撃空襲、原爆投下の出立基地となる)
 
(第一次世界大戦で多くの日本人が連想するのは徳島と愛媛に開設された捕虜収容所の人道的な待遇と“ドイツ人戦争捕虜と地元の人たちの交流”。徳島の捕虜たちによる日本初の第9交響曲演奏会、ビールやドイツパン、バームクーヘンなどの技術が日本に導入されたことだろう)
 
 しかし、日本政府は山東省のドイツ利権をそのまま継承する積りで、当然、公約通り返還を求める中華民国政府と対立する。(当時の日中間の対立の経緯はここでは省略する)
 
 日本政府は欧州で大戦が続く間に袁世凱大統領と直接交渉。15年1月18日、日本(大隈内閣)は山東省のドイツ利権の継承、旅順・大連の租借や鉄道の権益の99年間延長など当時の満州の利権など5項21箇条の要求を袁世凱政権に突き付けた。
 
 これが、中でも“山東省への権益拡大”が、欧米列強、特に“アメリカの日本に対する不信感”を植え付ける。(イギリスはドイツ利権を日本が継承すると内密に通知し、更に日本が海軍艦艇を地中海にまで派遣しイギリス兵士の搬送・防衛に当たったことなどもあって、強い反対はしていなかったが、“過剰な要求・利権拡大”には眉をしかめていたようだ)
 袁世凱政権が一部の項を除き21箇条要求を受け入れると、当時の中国国民は「国辱記念日」と呼び反日の世論増加の出発点となる。結局要求通り、日本は旧満州、内モンゴル、山東省などの権益を更に拡大していき、中国での抗日世論が激化して行く。
 
 日本は急激に帝国主義的政策を推進、軍国主義化、その後の“日中15年戦争”への導火線となった。そして、日中戦争がアメリカ、イギリス、オランダ、カナダ、オーストラリアの対日戦争へ、そして壊滅的な敗戦と繋がって行った。
 
 また第一次世界大戦でロシア帝国が崩壊、ロシア革命後ソヴィエト連邦が樹立されると、革命干渉に日本は米英仏伊の4か国と共に18年8月、チェコ軍団の救出の大義名分を掲げてシベリア出兵した。
 シベリア出兵は各国軍にかなりの被害を出し、ドイツ敗戦と共に18年中に各国は軍を引き揚げたが、日本だけは22年まで出兵を続けた。一時は樺太から沿海州、バイカル湖にいたる広大な地域に軍を展開したため、更に欧米諸国から帝国主義的野心を疑われるようになる。
 
 第一次世界大戦で戦勝国も敗戦国も想像を絶する被害を出し、その後(対独報復主義が第二次大戦を招いたが)、“ヨーロッパでは戦争防止や平和構築・維持への幾つもの取り組み”が行われるようになった。
 
 一方、日本は他の国に比べれば損害も少なく、漁夫の利を得るような形で権益を拡大した。筆者の独断であるが、当然政府指導者に戦争の惨禍や平和構築の必要性を考慮することはなく、日本の体質を改める余裕も生まれなかった。
 
(大貫康雄)
PHOTO by Frank Hurley (Australian Commonwealth Government) [Public domain], via Wikimedia Commons