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日本の建築家、2年続けてプリツカー賞を受賞

 “建築界のノーベル賞(NY Times)と言われるプリツカー賞(Pritzker Architecture Prize)が今年は伴茂氏に”は、既にこの春マスコミで報じられた。
 6月13日アムステルダムで行われた授賞式で伴氏の挨拶(英語)は、“プリツカー賞創設の精神を踏まえた建築活動の意義と原点”を改めて認識させるもので出席者に感動を与えた。
 
 日本のメディアでは6月14日付ジャパン・タイムズ(以下JT)が伴氏の挨拶を報じているので紹介したい。

 伴氏は、氏の建築(構想)を通した長年の人道的な活動、被災地や難民の人たちの緊急事態の生活を支える活動を理解されたものとして次のように述べている。
 
 “歴史的に、そして現在もだが、我々建築家たちはカネや権力を持つ所謂特権的な人々のために働いている、、、。
 しかし私自身は、「建築家はその知識や経験を特権的な人々のためだけではなく、一般の人たちにも、更には災害で住む家を失った人たちのためにも貢献するべきである」、と考えている。
 
 伴氏の手掛けた建物はニューヨークのマンハッタンのビルや、銀座のスウォッチ・グループ日本本社をはじめ世界各地に見られる。
 
 建築を通した人道的な取り組みは、90年代UNHCR=国連難民弁務官事務所を説得し民族間の虐殺・内戦で家や故郷を追われたルワンダ難民の人たちに頑丈な段ボール製パイプで避難所を作る構想を実現させた(94年)事に始まる。
 以来、95年には阪神淡路大震災で紙とビール瓶の箱で住宅を作り、またトルコ、インド、中国四川省、ハイチなど大地震や津波の被災地に入って被災者のために、安い費用で避難所や仮住宅の構想を提唱し実現させている。
 
 いずれも緊急避難的な仮設住宅を想定したが、耐用年限3年を想定して作った神戸での仮設住宅は10年使われるなど、しっかりした建築であることが証明されている。
 
 2011年のニュージーランド、クライストチャーチ地震の時は、復興の象徴として段ボール製パイプで教会を提案して実現させ各国で紹介されている。
 2011年3月11日の東日本大震災に際しては宮城県女川町でコンテナを利用した3階建て仮設住宅を実現させている。
 

 伴氏の姿勢が特筆されるのは、授賞式の挨拶にもあるように、“カネや権力のある人たちの意向にそう建築ではなく、地域社会、環境を考慮し、人々の生活に資する安くて無駄の無い建築”を一貫して目指していたことだろう。
 
 プリツカー賞は1979年、建築活動を通し“時代の流行に囚われず、長期的な展望を持った質の高い建築を実現し、人類や地域環境に一貫して意義深い貢献をしてきた建築家を讃える”、との目的でハイアットの創業者ジェイ(Jay)・プリツカー、シンディ(Cindy)・プリツカー夫妻によって創られた。

 10年目の受賞者にブラジルのオスカー・ニ―マイヤー氏ら2人が選ばれた時NYタイムズが“建築界のノーベル賞に匹敵する“と評して以来、プリツカー賞は建築界最高の名誉ある賞と見なされるようになった。
 日本では93年受賞の槇文彦氏、昨年の伊東豊雄氏など伴氏を含め7人に上る。
 
 建築にはカネ、人材、技術、それに土地が必要で、一旦出来ると人々の生活に影響を与え続ける。周辺の景観や環境に貢献するものもあれば、逆に周辺との調和を損ねるものもある。
 
 それだけに深い見識が求められるのだが、現代建築は周辺環境を考えずに高さや規模を競ったり、奇抜なデザインの建物が乱立しており、フランク・ゲーリー氏やダニエル・リベスキンド氏など著名な建築家が警鐘を鳴らしている。
 
 伴氏の指摘そのまま、カネと権力に奉仕する建築家が肩で風を切っている。中にはプリツカー賞受賞者で賞の精神を忘れたかのように資本や権力のために動く建築家が出ている。
昨年の伊東豊雄氏に続く今年の伴茂氏のプリツカー賞受賞は、そうした傾向に一考を迫るメッセージである。
 
(大貫康雄)
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