「震災前の福島に戻して!」~福島市から京都市へ母子避難した女性の切なる願い
その目に涙はなかった。同情や支援を求める言葉もなかった。ただただ、怒りに満ち溢れていた。哀しみが充満していた─。福島市から京都市に母子避難中の40代母親が、放射性物質に汚染された故郷への想いを語った。除染への是非、放射線量の捉え方、国や行政の帰還政策…。福島を取り巻く論争を遠く京都で見つめ、大切な視点が欠けていると指摘する。「国も行政も専門家も、『震災前の福島』を取り戻すために全力を尽くしていますか?」
【福島の汚染は日本全体の哀しみ】
睨みつけるような鋭い眼光に、怒りや哀しみが凝縮されていた。
「今、避難者に必要なものは?」「福島から避難しない人々をどう思う?」。自主避難者である自分に投げかけられる問いかけは、いらだつものばかり。
「避難者支援はもちろん大切です。でもね、一番つらいのは故郷を失ったということなんですよ。福島県民の願いはただ一つなんです。『震災前の福島に戻して欲しい』『震災前の生活がしたい』ただそれだけなんです。炎が燃え盛っている火事場を救わなくてどうしますか?以前の大地を取り戻すことができないのなら、では何ができるのか。何をするべきなのか。すべての議論はそこから始まるべきです」
事故から3年、世界中の科学者が英知を集結していると言えるだろうか。枝葉末節ばかりが取沙汰される日々。「以前の福島を取り戻すという共通項があれば、県民の分断もなくなると思います」。
よく語られる言葉に「福島を忘れない」がある。「本来は『忘れない』ではなく『福島のことは忘れられない』ですよね。原発事故は福島県だけの出来事ですか?他人事のように傍観している場合ではありません。あなた自身のこととして考えて欲しいのです。汚染は福島県民の哀しみではなく、日本国民全体の哀しみでなければいけませんよ」。
力強く言う。「故郷は再生不能ではない」。だからこそ、政治も科学者も真の福島再生のために議論を尽くして欲しい、知恵を絞って欲しいという願い。
「私の中で湧き起ったものは、怒りではなくて哀しみでした。私たちが失ったものはあまりにも大きいんです」
2011年9月15日、福島市役所の放射線量は1.18μSv/h。この頃、女性は既に京都市での避難生活を始めていた
【〝0.04μSv/h〟は譲れない】
自身の避難の動きは早かった。
福島第一原発1号機の水素爆発の翌日、2011年3月13日に都内に住む友人からメールが届いたことがきっかけだった。「危ない、逃げた方が良い」。15日には県外避難を決意。18日には福島空港から羽田空港行きの飛行機に乗っていた。
その年の6月まで、東京都西部の西多摩郡で生活。その後、京都市の公務員宿舎に移り住んだ。「いろいろと調べていたら、京都市が福島からの避難者を受け入れていることを知ったんです」。現在は、5歳の一人娘を育てながら、避難者同士、避難者と支援者をつなぐ団体の代表として奔走。2013年5月からは、交流拠点であるカフェも切り盛りしている。
「私の考えは実にシンプルなんです。震災前の放射線量である0.04μSv/h、これは絶対に譲れない。であれば、福島での生活は不自由だらけです。安全か危険か、ではなく不自由。子どもは屋外で遊ばせられませんしね。でも、ここ京都にはそういった不自由さはありません。不自由な土地から不自由さのない土地へ移り住む。単純明快です」
さらに、こう言い切る。
「私は福島市に住むなんてあり得ないと思います。とんでもないミラクルが起きれば別ですけれど…」
一方で「私の考えは『絶対』ではない」とも。「福島市だけをとってみても、場所によって放射線量に差があります。絶対的な価値判断などないのです。福島から出るも出ないも、どちらの考え方も尊重されるべきです」。
自宅の放射線量は、原発事故直後の1.5μSv/hから0.3μSv/hに下がった。これを「下がった」と見るか「まだ高い」と見るか。「原発事故以降、私たちはずっと悩んでいるのです。分からないですよ、誰にも。それが今の福島です。だから皆も悩んで欲しい。考えて欲しいんです。原発事故は昔話などではありません」。
女性が切り盛りするカフェでは、福島の地元紙が自由に読めるように用意されている=京都府京都市
【帰るべき場所を奪った原発】
未曽有の震災と原発事故で生き方が変わったという。
「あなたにとって震災とは何だったのか、これからどう生きて行くか、が問われています。私はやはり、100がゼロになるような社会ではいけないと思う。今に対して責任を持つことが未来を守ることになる。今が良ければそれでいいなどという考えが、福島県民から故郷を奪ったのです。〝持続可能な社会〟を目指すべきではないでしょうか」
浪江町や双葉町など、浜通りの人々は依然として自宅での生活が許されない。「私には福島市という街がある。帰ろうと思えば帰ることのできる場所がある。でも、浜通りにはそれが無いんです。帰ることのできる場所がなくなったらどうなるか、それを忘れてはいけません」。
「反原発」などと声高に叫ぶつもりは毛頭ない。「反政府」を掲げて活動する気持ちもない。しかし必要のない避難を強いられ、故郷を離れた1人として「守るべきもの」は何なのか、考えずにはいられないのだ。
あの日、わが子を守るために西を目指した。
「避難に〝今さら〟はありません。決断できなかった過去を振り返って責めるのではなく、今後のことを考えましょう。今、決めれば良いのです」
最後にようやく、女性は優しい笑顔を見せた。
(鈴木博喜)<t>