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スペイン民主化を率先したカルロス国王、退位を表明

 今日のような民主的で開かれたスペインは、僅か36年前に実現した。多くの読者には信じられないだろうが、以前のスペインではフランコ(Francisco Franco)総統体制の下、民主政治どころか女性の社会的権利も活動も認められない国家だったが、短期間で開かれた民主的体制にした主役が、フランコから帝王学を授けられていたファン・カルロス(Juan Carlos)1世だった。 
 逆説的な展開、世界でも稀有な“上からの民主革命”の遂行者だった。
 
 そのファン・カルロス1世が国営テレビを通して退位を表明した。理由は、経済不況で国民が苦しむ時にアフリカに像狩りに出かけ批判を浴びたことを上げる向きもあるが、腰の手術後歩行が困難で訪問客を迎える時に転倒するなど、公務遂行が困難になっている。
 やはり健康上の問題と考えるが、在位39年、時代はようやく彼を超えて進むことになる。
 
 ファン・カルロス1世は超保守的な当時のスペインで75年11月20日フランコ総統の死と同時に国王に就任。権威主義的な体制を維持する、との大方の予想に反し就任当初から政治の民主化を志向。フランコ総統の葬儀に来たチリの独裁者ピノチェト大統領を参列させずに追い返している。
 以前この欄で紹介したアドルフォ・スアレス(Adolfo Suarez)首相(当時)を支援し78年、スアレス政権誕生と共に自ら国王親政を廃止、民主的な憲法を制定し立憲君主制に移行させた。
 
 当時のスペインは、民主主義的な政党政治に対する偏見が強く、また女性の社会進出は制限され、女性は銀行口座の開設や旅券取得などまで夫や父の同意が必要とされるくらい超保守的な社会だった。
 
 フランコ体制下で実権を享受してきた軍部内は、国王親政の復活を望む超保守的勢力が大半で、何回もクーデター未遂事件が起きている。81年2月23日には200人の兵士が議会を占拠、スアレス首相ら議員350人を人質に取る。ファン・カルロス1世はクーデター軍の要請を拒否。国営放送と通し軍司令官らには”クーデターに賛同しないよう”呼び掛け、国民には生まれたばかりの“民主主義体制の堅持”を誓った。この国王の断固たる姿勢でクーデターは翌日収拾される。
(今、自民党と安倍政権は“自主憲法制定”の尤もらしい理由をつけ、国民の多くも天皇・皇后・皇太子の誰も望まないのに、国民の権利を制限し、天皇主権の憲法を復活させようとしている。ホームページでは今も、非民主的な改憲草案を掲げている。
その時代錯誤の認識がこの時のスペイン軍部と重なって見えてくるのは筆者だけではあるまい)
 
 逆説的だが、スペイン民主化の道程は立憲君主・ファン・カルロス1世の努力で80年代にようやく定着した、と言って良い。
 
 イタリアで育ったファン・カルロス1世は人権の擁護と民主化が進むヨーロッパの方向性を的確に見ていた。
 スペインが国王親政の非民主的体制を続ける限り、ヨーロッパの主流に取り残されスペインの未来は無いことを痛感していた、と言われる。
 
 超保守的な国家だったスペインで、ファン・カルロス1世が故スアレス首相と共に推進した民主化がこれほど迅速、かつ着実に進展するとは大半の諸外国が想定できず“スペインの奇跡”とさえいわれた。
 
 スペイン国民は今や国王や王室の言動を自由に批判し、カタルーニャ州やバスク州ではスペインから分離独立を目指す動きも活発だ。野生生物の保護が世界中で叫ばれる時代、アフリカゾウの狩猟旅行をするなど、時代認識がずれてきたことは否めない。
 しかし、その自由で開かれた民主社会を、最高権力を持つファン・カルロス1世自身が不退転の決意で推し進め、自らの権力を国民の手に委ねた功績は認めねばなるまい。
 
(大貫康雄)
写真:Image by א (Aleph), http://commons.wikimedia.org [CC-BY-SA-2.5 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/2.5)], via Wikimedia Commons