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日本政府の“邦人擁護”の実績は?

「右翼の軍国主義者と言われても構わない!」、昨年9月26日、安倍氏がアメリカの右派のシンクタンク・ハドソン研究所での講演で居直った。本音だろう。
そんな安倍氏、“集団的自衛権行使に先ずは小さな穴を開け、何としてでも自衛隊を戦闘に赴かせる可能性を拡大したい”のだろう。
だから邦人救出や米軍が攻撃された事態云々などと、殆ど非現実的な思いつきを言う。


その前に落ち着いて、過去の海外在留邦人の救援、救出例だけでも検証してはどうだ。
救出は何が可能にしたのか、日本政府が国民のためにどこまで尽力したのか、と、、、。
幾つか事例を振り返っただけでも実態は、邦人救出に現地及び周辺国の理解と協力が不可欠だったこと、日本政府の影が薄かったことが現実だ。


大使館は国民救出にどこまで尽力したのか?
1975年4月30日、北ベトナム軍が進軍し旧南ベトナムが崩壊して首都サイゴン(現ホーチミン)が陥落(解放)。在留外国人は脱出するために先を争い大混乱に陥った。
80年代初め東南アジアや南太平洋の幾つかの島々で、企業の元南ベトナム駐在員で日本に戻らず現地に定住した日本人家族にお会いした。いずれの家族もサイゴン陥落の時、“日本政府に見捨てられた“という苦い体験があった。頼みの日本大使館は既にもぬけの殻、“アメリカ軍のお陰で救出されていた。コカコーラの現地職員だった日本人男性は日本大使館閉鎖後、アメリカ企業の従業員として共にアメリカ軍に救出された。
共通していたのは“日本政府に見捨てられた”との思いだった。


邦人救出を自分の功績にすり替えた?外務省
フセイン時代の80年9月22日、イラク軍のイラン侵入で始まったイラン・イラク戦争。戦争がこう着状態になった85年3月17日サダム・フセイン大統領が“48時間の猶予期限の後イラン上空を飛ぶ航空機を無差別攻撃”すると宣言。
外国人は各々の国の軍や航空会社の航空機で順次脱出。しかし日本航空は“危険だ”として政府の救援機派遣依頼を拒否。自衛隊にはイランまで直接航空機を飛ばす能力が無かった。限られた時間内、いずれの国も自国民の救出に手一杯の状況だった。


その人たちを攻撃猶予期限切れ1時間15分前に航空機に搭乗させ救出したのはトルコ航空機だった。トルコの首相がトルコ航空に“日本人救出に協力するよう指示”した結果だった。


その経緯は在イラン大使の功績とする外務省と、トルコ駐在商社マンの人脈による成果だった、との2説ある。


外務省説明:イラン在住の野村豊大使がイスメット・ビルセル・トルコ大使に救援を要請、それにトルコ政府が応じ、自国民救出の救援機を2機に増やし邦人を救出した。


筆者としては経緯の具体性を比較し、商社マン貢献説を取る。
トルコのオザル首相と親しかった伊藤忠商事のイスタンブール支店長森永堯氏が在イラン邦人の危機を聞きつけオザル首相に直接働きかけ、それに首相が応じてトルコ航空に指示。その決定を在イラン・トルコ大使が日本大使に連絡した。


トルコの政治社会状況を考えると、トルコ航空が迅速に動いたのは首相からの直接指示、と見るのが自然だろう。
(航空機に搭乗できなかったトルコ人500人はバスなどで陸路山岳地帯を越えてトルコに帰還した、という)


(外務省は後日、国会で邦人救出を取り上げた際、まるで森永氏の功績など無かったかのように、駐イラン大使の手柄のように証言している。一方救出された何人かの元駐在員は救出機の元機長を探し出して感謝の意を伝え、元機長が昨年亡くなるまで交流を続けた)


政府・マスメディアが、救出すべき邦人の自己責任論を叫び、邦人個人を中傷攻撃
2004年4月7日 日本人ボランティアなど3人、武装勢力に誘拐され、15日、イラク・イスラム聖職者協会「イラク・ムスリム・ウラマー教会」の働きかけで無事釈放された事件。醜悪だったのは日本政府とマスメディアによる、3人への“自己責任”論など集中的な誹謗・中傷攻撃だ。日本政府が自衛隊のイラク派遣との関係へと世論が動くのを恐れ、世論の流れを政治的に誘導した世論工作だったと見ている。
政府・マスコミの3人への中傷攻撃はアメリカのパウエル国務長官が“3人は善を行おうとした立派な人たち”とTBSのインタビューで称賛してようやく収束した。情けない限りだった。


3人の自作自演説を公安警察までが信じていたとか、特殊訓練を受けた工作隊をイラクに派遣する案も出たといわれている。マトモナ情報を収集・分析もできない。現地の言葉も方言も話せない。理解できない。人々の考え方、風習も判らない。何処に安全な水や食糧があるかも判らない。
そんな人間が幾ら特訓を受けたとして安全かつ効率的に動けるか何の補償も無い。それこそ一方的な思いつきで勝手な救出策を考えていたのであれば、恐ろしい限りだ。


政府がそんな実情だったとすれば邦人救出の事態が起きた場合、現地情報を的確に分析し、最善の策を探る真っ当なインテリジェンス機関が日本には育たないと考えてしまう。


邦人擁護が重要な存在意義である外務省の竹内次官までが“救援費用を払え”などと滔々と3人を非難していた。
(その竹内氏は今や最高裁判事だ。一体どこまで国民の側に立った判決を出せるのか)


筆者は当時ロンドン駐在で、各国のジャーナリスト達から“政府を批判するのが当然なのに逆に3人の市民を非難するなど、一体日本のメディアは何処を向いているのだ?!”、“あのように国民を非難する外務省幹部は失格だろう!“などと呆れられたのを鮮明に記憶している。
(同じころ高報酬を条件にイラクに来ていたアメリカの石油掘削技術者が武装勢力に誘拐された。CNNなどアメリカ・メディアは国民に救出と協力を訴えるビデオを盛んに流していた。彼こそ自分の儲けにイラクに入り拘束されたのに、勿論誰も非難などしない。日米の対応を比較するだけでも日本のメディアの異常さが判る)


3人の解放時はたまたまアルジャジーラ・ヨーロッパ総局長室にいて第一報の映像を確認した。3人を暖かく迎えるスンニー派聖職者クベイシ師の温和な姿が流れていた。
クベイシ師とシーア派、キリスト教徒の聖職者一行はその後2004年8月に超宗派団体の招きで東京を訪れた。会議での和やかな雰囲気もさることながら、一面笑顔でしゃがみこみ、子どもたちと接する姿が印象に残っている。


クベイシ師は、“自衛隊が一発の銃弾も発せず、人々の生活支援、インフラ整備に専念したのがイラク人の疑念を払しょくして良い結果に繋がった”、と語っていた。


この事件は我々日本政府とメディアが民主主義世界の常識とはかけ離れているのを痛感させる事件だった。


大勢の邦人が人質となったペルーの大使公邸占拠事件(96年12月17日~97年4月22日)のように長期化し、現地国の大統領以下政府の粘り強く揺るぎの無い協力姿勢が無ければ絶対に解決出来ない例もある。


他所者の日本の武装部隊がノコノコ出かけて行って解決出来る性格のものではない。現地の信頼を失いかねず逆効果でさえある。


幾つか過去の事例を見ただけでも、自衛隊の安易な派遣が如何に危険か、それこそ“推定”できる。
在外邦人の安全を言うのであれば、先ずは基本に立ち返り、出来るだけ多くの国々との信頼関係を厚く築く努力を怠らないことだ。


<参考>
79年       イラン・イスラム革命
80年09月22日 イラク軍、イラン空軍基地を攻撃
:イラン・イラク戦争勃発
81年06月07日 イスラエル軍、イラク(原発)攻撃
82年03月19日 アルゼンチン軍、フォークランド実質侵攻
:フォークランド紛争
(06月14日 アルゼンチン軍降伏)
82年06月06日 イスラエル軍、レバノン侵攻(レバノン内戦再発)
米、仏軍レバノンに軍隊派遣、
PLO、チュニジアに逃亡
83年04月16日 レバノンの米大使館爆破事件
10月23日 レバノンの米海兵隊兵舎爆破事件
83年10月25日 米軍他、グレナダ侵攻
⇒英、加、中南米諸国などが侵攻批判
84年02月26日 米軍、ヨルダン撤退
88年08月20日 停戦


PHOTO by Mr-haruka at the Japanese language Wikipedia [CC-BY-SA-3.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/)], via Wikimedia Commons