桜の季節が訪れた高線量の浪江町~これでも原発事故は過去の出来事か?(鈴木博喜)
全町民が避難生活を強いられている浪江町にも桜の季節が訪れた。福島第一原発の爆発事故から37カ月。桜咲く浪江町に、町民の協力を得て昨年8月に続き入った。ウグイスが鳴き、請戸川のせせらぎが耳に心地よい。しかし、手元の線量計は軒並み10μSv/h前後を示す。現在進行形の原発事故。町民の願いや春の光景とは裏腹に、厳しい汚染の現実が次々と目に映った。
【民家に貼られた怒りの文字】
原発事故から4度目の春を迎えた浪江町は、ウグイスの鳴き声が響いていた。
町立津島小学校へ続く坂道には桜の街道ができ、きれいな花を咲かせていた。美しい浜通りの春。だが、放射線に激しく反応する線量計のバイブレーションに、現実に引き戻される。
国道114号線を進み、浪江町役場津島支所前で車を降りる。手元の線量計は一気に3-4μSv/hにはね上がる。地面に線量計を近づけると、場所によっては34μSv/hに達した。
緩やかな坂道を上がり、津島小学校の校庭に入った。道の両脇では桜が咲いている。原発事故さえなければ、今年もかわいい子どもたちが歓声をあげて登校していたことだろう。
静まり返った校舎。校庭の真ん中に立つと、線量計の数値は4μSv/hを示した。校舎前に設置されたモニタリングポストの数値は3.132μSv/hだった。福島第一原発が爆発しなければ、避難を強いられることもなかった子どもたち。その心情を代弁するように、津島診療所近くの民家には、道路に面した窓に怒りの言葉が掲示されていた。
「仮設でパチンコできるのも東電さんのおかげです」「放射能体験ツアー大募集中!! 楽しいホットスポット巡り 東電セシウム観光」「今日も暮れゆく仮設の村で。友もつらかろせつなかろう。いつか帰る日を想い一時帰宅」…。そして、こんな言葉も「放射能如きにまけてたまるか」。町民たちの悔しさは、想像して余りある。
津島郵便局の入り口には、こんな貼り紙があった。
「郵便局業務すべてが休止しています」
郵便局だけではない。浪江町すべてが放射性物質の拡散で止まったままなのだ。
(国道114号線を川俣町方面から向かうと浪江町へ。許可証をチェックするバリケード手前で、手元の線量計は3μSv/hを超えた)
(津島診療所近くの民家。原発事故に対する怒りの言葉が掲示されているなか「放射能如きに負けてたまるか」の文字も)
(町立津島小学校の「なかよし農園」も汚染してしまった…)
【「本当は福島県外で暮らしたい」】
取材に協力してくれた男性は、今月で還暦を迎える。伊達市内のアパートでの避難生活も4年目になった。「近くのスーパーに買い物に行っても知り合いがいない。ああ、避難しているんだなって寂しい気持ちになるよね」。
決して消えることのない故郷への想い。車を運転する時、浪江町の方向を示す標識を目にすると、今でも胸が痛み、涙がこみあげる。帰りたい。帰れない。「復興住宅に入居すれば浪江の人たちと一緒に生活できますよ」と水を向けると、意外な言葉が返ってきた。「復興住宅に入る気持ちはないんだ。町役場のアンケートにも、ずっと『入る意思は無い』と答えてきたんだ」。
相反する想い。その裏には、原発事故による汚染がある。「そりゃ帰りたいよ。でも、僕が生きているうちに帰れるかい?じゃあ、どこに住むか。こうなった以上は、ここまで汚染してしまった福島で暮らしたくないんだよ。仮に0.1μSv/hになったとしてもね。できれば都会でない静かな街で暮らしたい。そう考えているうちに3年が経ってしまったんだ」。先祖代々の墓は町内に残すことに決めた。
東電への賠償請求は、原発事故直後に100万円を受け取ったきり、していない。一度、書類を提出したが「記入に不備がある」として戻ってきたことがある。それから、書類を書くのをやめてしまった。「何が不備だよ。本当に東電のやり方には腹が立つ。僕の周りにも、同じように請求していない人がいるよ」。だからこそ、インターネットで「浪江町民は原発事故をいいことに国や東電にたかっている」という書き込みを目にすると、とても頭にくるという。先日、隣組の集まりが相馬市内で開かれた。全国の避難先から知った顔が集まったが、避難先で新しい住まいを手に入れられたのは3、4人だった。
自宅の庭で、手元の線量計は4μSv/hを超えた。「こんな状況でどうやって町に帰れというんだ。国も行政も、人口流出させたくないから福島に戻すことばかり言っている。住民の健康なんか考えていないんだ」。
自宅の前ではスイセンがきれいな花を咲かせていた。「この前、障子を張り替えたんだ。別に誰が見るというわけでもないんだけど、あまりにもみすぼらしかったからね」。5月の連休中、関東に住む弟が墓参に来る。だが、わが家でもてなすことはできない。
男性はふと「そろそろ東電への請求をしようかな」とつぶやいた。90歳近い母親と二人暮らし。贅沢をしていなくても、生活は苦しい。私は「胸を張って、堂々と請求してください」と言った。男性は少しだけ笑った。
(請戸川沿いの道は、10μSv/hを超す個所が珍しくない)
(町内では常磐道の建設工事が急ピッチで進められている)
(男性宅の庭は4μSv/h超。地表真上では20μSv/hを超す地点も)
【目立つ除染作業員の姿】
トンネルを抜け、昼曽根地区へ。南相馬市原町区に続く県道49号線の「原浪トンネル」の手前で、2人の男性が除染作業をしていた。軽く会釈を交わし「体調は大丈夫ですか?」と尋ねると、1人の男性が黙ってうなずいた。回収した草木や土をフレコンバッグに移し替えている。砂ぼこりが激しく舞い上がった。
何度も訪れている同地区だが、東北電力の水力発電所前の土壌に線量計を近づけると、数値は160μSv/hを上回った。周囲の放射性物質が雨などで溜まるのだろうか。請戸川の水面は美しいが、川沿いは軒並み10μSv/hを超えた。これだけの汚染をどのように除染をし、人間が安全に暮らせる状態に戻すのか。「震災前は、秋になると多くの人がマツタケ狩りを楽しんだものだよ」。男性がさびしそうな表情で山を指さした。
二か所目のバリケードで許可証を提示し、町の中心部へと入る。モニタリングポストが4.495μSv/hを示していた国玉神社は、3.11の激しい揺れで社殿が斜めに傾いていた。浪江駅前の店舗も、損壊したまま倒壊の危険を示す環境省のテープが新たに貼られていた。信号は黄色で点滅。一時帰宅した住民が出した廃棄物が、所々に置かれている。
浪江町役場にほど近い六反田地区。雑草が伸び放題になった公園には、かつて東邦レーヨンの工場があったことを記念した石碑が建てられている。手元の線量計は0.25μSv/h。同じ浪江町でも汚染の度合いに大きな差があることを知らされる。では、線量の低い地区だけで町を再開させるのか。これまでの取材では、町に戻ると答えた人はほとんどいなかった。
町内では、中断していた常磐道の建設工事が急ピッチで進められていた。除染作業員の車両も多く目にする。しかし、放射線量が低いとはいえ駅前で0.9μSv/h。わずか3年で状況が激変するはずもない。駅前ではカラスの鳴き声だけが響いていた。町民の苦悩はまだまだ長く続きそうだ。
【民の声新聞】
Eye Catch Photo by BehBeh, via Wikimedia Commons
The Ōu Mountains in Kōriyama, Fukushima