ノーボーダー・ニューズ/記事サムネイル

60年前に人権侵害に立ち上がり、報道の自由を守った番組とアメリカのジャーナリストたち(大貫 康雄)

毎年4月になると、個人的に60年前に人権侵害に立ち上がり“報道の自由を守った番組とアメリカのジャーナリストたち”を思い出し、あらためてメディアの健全な役割を考えてしまう。

それはアメリカのテレビ局『CBS』の夜の報道番組『See It Now(この問題を注視せよ)』と、番組のアンカー、エド・マロー(Egbert Roscoe Murrow, Edward M. Murrow)、そしてプロデューサーのフレッド・フレンドリー(Ferdinand Friendly Wachenheimer, Fred W. Friendlyだ。

今の日本の我々には想像できないが、アメリカにはかつて、権力、そして社会の狂気や偏見に敢然と立ち向かったジャーナリストたちが存在し、彼らが発信する番組があった。

冷戦が厳しさを増していた1950年代、アメリカはいわゆるマッカーシズムの旋風が猛威をふるっていた。

米国上院議員のマッカーシー(Joseph Ray McCarthy)が、上院の「非米活動委員会」委員長の立場を悪用し、共産主義の脅威を誇大に振りまいていたのだ。

マッカーシーは人権活動家や労働運動活動家、表現の自由を追求するハリウッドの俳優や監督たちを一方的に“危険な共産主義者”と名指しして、公聴会に召喚し攻め立て、社会から追放していた。

当時のアメリカのメディアは、マッカーシー議員の言動の根拠を取材・検証することはなかった。また、アメリカ社会は彼の荒々しい言論にのまれて正常な判断力を失い、大統領をはじめ、誰ひとり彼の横暴を止められなかった。

この番組のアンカー、マローとプロデューサーのフレンドリーは、1954年にマッカーシー批判の調査報道を始めた。

きっかけは、「ある空軍兵士の父親と姉が共産党員だとの嫌疑をかけられ、それだけの理由で除隊処分にされようとしている」との新聞記事だった。

その兵士は裁判も経ずに有罪宣告を受けた。マローたちは事実を究明すべく取材を開始したが、その途端にCBSの副会長が反対、空軍司令官から圧力がかかった。また番組のスポンサーが降りたため、マローたちは自腹でコマーシャル経費分を負担して放送に踏み切ることにした。

この放送に怒ったマッカーシー議員は、CBS会長に“マローが共産主義者だという証拠”の手紙を送る。マローたちは脅しに屈せず、議員のそれまでの演説や発言のテレビ映像や録音テープ、新聞記事などを徹底して集め、分析・検証していく(CBS会長は、マローがすでに名声を確立したジャーナリストであるため、簡単に口出しをしなかった)。

54年3月、マッカーシー批判の最初の調査報道番組が放送される。番組ではマッカーシー議員が嘘の言動と策謀を繰り返してきた、その“いかがわしさ”を明らかにした。

番組は大変な反響を呼び、CBSには電話が鳴りやまなかったという。アルバート・アインシュタインは、マローを絶賛する書簡を送っている。

アインシュタインはナチスが台頭した30年代のドイツを体験し、50年代アメリカの類似性を指摘し、警告していた。翌朝は『NYタイムズ』をはじめ、各紙が番組を絶賛した。

マローたちは次の週でもマッカーシー批判の番組を放送する。共産党員との嫌疑をかけられた国防総省の女性職員に対する公聴会を取り上げ、マッカーシーの追求の欺瞞性を暴いたもので、この番組も絶賛を博す。

しかし、54年4月に入るとマッカーシーが反論に出る。マローたちが提供した反論の場で、一方的に“マローは共産党員だ”と攻撃を続ける。

これに対しマローは、次の週の番組で自分にかけられた嫌疑を丁寧に反証し、潔白を明らかにし、同時に“真実を報道することの意義”を語る。

世論は再び圧倒的にマローを支持する。こうした曲折の末、ついに上院が動き出し、マッカーシーを公聴会に召喚すると発表。マローたち半年の闘いの末、マッカーシーは上院「非米活動委員会」委員長の地位を解かれ、政界を去った。こうしてアメリカ社会を暗く支配していた嵐は去る。

50年代前半のアメリカを席巻したマッカーシズムは、第一次大戦後のドイツ・ワイマール共和国を崩壊させたナチズムと同様、民主主義社会が持つ脆弱性を浮き彫りにした。

マッカーシズムの犠牲者は数千人に上るといわれる。政府や公共部門の職員だけでない。

彼らの家族、親しい友人や弁護する者など、一般市民にも嫌疑をかけて次々に職場から解雇させたりしていく。メディアもハリウッド関係者も例外ではなく、多くの俳優、監督、プロデューサーが追放される。チャップリンはヨーロッパに行き、二度とアメリカに戻っていない。

マローたちがマッカーシーとの闘いに立ち上がった時、アメリカ合衆国憲法は、事実上無視される状態であった。

憲法は自分に不利な証言を拒否できる権利を明確に保障している。しかし、議会の公聴会では証言を拒否する者は“議会侮辱罪”で有罪にされた。アメリカ人(政治家や言論人)、社会は正常な判断力を失いおおもとの憲法を無視した立法が公然とまかり通る危険な状態になっていた。

(エド・マローとフレッド・フレンドリーたちのマッカーシズムに対する闘いは、2006年に公開されたジョージ・クルーニーGeorge Timothy Clooney自身が監督兼フレンドリー役で出演した映画『グッドナイト,グッドラック(Good Night and Good Luck!)』でも具体的に描写されている)

マローたちはマッカーシーとの闘いに勝ったものの、その後、当時の保守的な産業界や政府・政界からの圧力のためCBS経営陣から疎まれ、次第に干されていく。まず、番組「この問題を注視せよ!」が暇な時間帯に移され、次に定時番組ではなくなり、規模も縮小し、そして打ち切りになる。

番組打ち切り後の58年、マローはシカゴで開かれた報道番組制作者協会の年次総会で演説、“テレビ・ジャーナリズムが退廃し、現実逃避に陥っている”と批判する。

(政治と産業・商業主義への距離を保たないまま、表面上の“事実”を“客観報道”と称して無批判に垂れ流す傾向は、内外に溢れている。日本では権力を礼賛する報道さえ溢れている。マローの指摘は今、一層深刻になっているといえる)

マローとフレンドリーの業績については、後日紹介する機会もあると思うので、この記事では簡単にその後に触れておく。

マローはこの演説でCBS経営陣との溝が決定的になり、彼が持っていたもうひとつの番組「この人、あの人(Person to Person)」からも降板、失意のうちにCBSを去る。

しかし61年、大統領に就任したジョンF・ケネディは、かねてからマローを尊敬しており、USIA・米広報文化交流長官への就任を直接要請。マローは政策決定に参画できる権限を条件に引き受け、広報文化交流の重要性を内外に認識させたが、肺癌が悪化して63年長官を辞任。65年に死亡する。

フレッド・フレンドリーはCBSに留まり、64年にはCBS社長に就任。マロー死去の際は追悼番組を放送するが、その後、経営陣と対立してほどなく社長を辞任している。

マローたちが闘いに敗れ、マッカーシー旋風に呑みこまれていたら、ジャーナリズムや報道の自由どころではない。アメリカ民主主義が決定的な危機に瀕していたのではないかと今さらながらに考えてしまう。

同じような危険性はいつでも、どの国にでもありえる。60年前、マローたちが言論の自由とジャーナリズムをかけた闘いの意義は一層重みを増している。

【DNBオリジナル】

[caption id="attachment_20655" align="alignnone" width="620"] Joseph Ray McCarthy[/caption]

photo:United Press