オスロ平和合意の陰の推進者、ロン・プンダク氏死去(大貫 康雄)
イスラエルとパレスチナの間に和平が実現するかもしれない!? そんな期待を世界中が抱いた時があった。
1993年のいわゆる「オスロ合意(OsloⅠAccord)」は、イスラエルとパレスチナ、それに主にヨーロッパのNGOや社会経済学者たちの地道な共同研究が実を結んだものだった(Oslo ⅡAccordは95年成立)。
イスラエルの歴史家でジャーナリストのロン・プンダク(Ron Pundak)氏は、イスラエル側の中心として舞台裏で共同研究を推進し、合意に貢献した人物だった。
プンダク氏は、その後、両者の関係が悪化し、合意が事実上反故になった後も和平推進の活動を続けていたが、4月11日、ガンのため死去した(59歳)
93年9月13日、ワシントンのホワイトハウスでの合意文書署名式典で当時のクリントン大統領が間に立ち、イスラエルのラビン(Itzhak Rabin)首相とアラファト(Yasser Arafat)PLO議長が握手した瞬間の映像は、世界に流された。
この合意は、“パレスチナ暫定自治政府を設立し、これをイスラエル・パレスチナが相互承認。イスラエル軍は占領地や入植地から部分撤退をする。そして、5年間の暫定自治の末、パレスチナ難民の扱い、エルサレムの地位、入植地などの将来について両者が最終的な解決を目指す”というもので、極めて困難といわれる中東和平の実現に向けた努力を世界に宣言するものだった。
合意はすでに8月20日オスロで成立しており、そこに至るまでにはイスラエル、パレスチナ、そしてノルウェーやデンマークなど、北欧のNGOや社会経済学者たちの地道な現地調査や検証などの共同研究があった。
〈〜彼らの報告をパレスチナのアラファト議長は読んでいたが、ラビン首相は当初無視していた。ある日、エジプトのムバラク大統領が「あの報告をアラファト氏は熱心に読んでいる」と語って以後、ラビン首相も関心を示すようになった。
両者と良好な関係を築いていたノルウェーのNGO・ファフォ(Fafo)財団とノルウェー政府は、イスラエル側の変化を見て双方の政府代表をオスロ郊外のホテルに招き、双方に直接対話を促した。
当初は双方挨拶もしないくらいだったが、小さいホテルで何日間も寝泊まりし、小さい食堂で顔を合わせるうちに挨拶を交わすようになり、次第に会話が続くようになった~〉
(オスロ合意の翌年、プンダク氏をよく知る当時のデンマーク『ポリティケン』紙・編集長がそう語っている)。
両者の直接極秘交渉を斡旋したのは、ノルウェーのNGO『ファフォ財団』のラーセン理事長(後の副首相)とイスラエルのNGO『経済協力財団』共同設立者のヒルシュフェルド(Yair Hirschfeld)氏、そしてプンダク氏だった。彼らはアラファト議長らパレスチナ側首脳とも信頼関係を築き、パレスチナ側とともに6ページの報告書をまとめていた。
93年5月、こうした努力にイスラエル政府もパレスチナ側と極秘で交渉をすることを決意、オスロに外務省高官を派遣する。そして8月20日に最終合意が成立する。
(筆者の独断では、NGO活動家が政治家になったり、あるいは外交官になったり、またその逆もあるノルウェー人社会の柔軟な人材登用と洞察力に富む行動力が、あの困難な中東和平にひとつの可能性を切り拓き、オスロ合意という画期的な成果をもたらしたといえる。こういう外交こそ積極的平和主義外交という)
『NYタイムズ』紙によると、プンダク氏は昨年9月、イスラエルの『ハーレツ』紙に寄稿し“どんなに奇想天外な夢を見ても、あの共同研究がオスロでの極秘交渉、そして和解と和平の原則宣言に至るとは想像していなかった”と語っている。
また寄稿の中でオスロ合意後、交渉がとん挫したのは “ラビン首相とペレス外相(現大統領)らがイスラエルとパレスチナ双方の国民に両国関係の明確な将来像を示さなかったこと。アラファト議長が二枚舌を使い、パレスチナ人過激派のイスラエル人へのテロ攻撃に目をつぶっていた責任が大きい”と当時の双方の指導者たちを批判している(ラビン首相が95年11月4日、右派の男に暗殺されたことも、その後の和平交渉に暗い影を落としてしまった)。
プンダク氏は、その後も『NGOペレス和平センター(Peres Center for Peace)』理事長として中東和平に関わり、95年にはパレスチナの最終的な地位に関し、イスラエル・パレスチナ双方の外交責任者が合意する草案をまとめた(ペレス和平センターは、ペレス氏がノーベル賞受賞の賞金で設立し、プンダク氏に託したNGO)。
さらにジュネーヴでの秘密交渉にも関わり“2003年にはイスラエルの国境線を76年戦争前に近い状態で引き、エルサレムは東西に分割する”という右傾化した現在のイスラエルでは考えられないジュネーヴ合意(Geneva Initiative)もまとめている。
この合意は国際的な支持を集めたが、当のイスラエル国内では時のシャロン首相らが反対し、パレスチナ内でも難民の帰還権がないことで反対が強く、実現できなかった。
氏の活動は、イスラエルの右派からは“オスロの犯罪者”などと非難されたが、彼の信念は揺るがなかった。
最近は、アメリカの提案で国連安保理決議に基づき、政治的手続きと和平の促進がイスラエル国家の国際法上の承認と領土の確定に繋がると考えていたようだ。
氏の死去に対し、イスラエルのパレスチナ交渉責任者のリヴニ(Tzopi Livni)法相は“和平への兵士で、かつ英雄”などと惜しんでいる。
【DNBオリジナル】
photo:John Erling Blad