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戦争を立場の弱い人たちの目で捉えたフォト・ジャーナリスト、アーニャ・ニードリングハウスさん、凶弾に倒れる(大貫 康雄)

アフガニスタンの大統領選挙は、タリバンの攻撃や脅しにもかかわらず、前回より多くの人が投票する成果を挙げた。

その選挙初日(4月4日)、AP通信のフォト・ジャーナリスト、アーニャ・ニードリングハウス(Anja Niedringhaus)さんは、アフガニスタン北東部の町の警察署の構内で、投票箱が運び込まれるのを同僚の記者(同じく女性)とともに車内で待っている時、外国人嫌い、女性の社会活動を拒否する警察官に銃撃され死亡した(48歳)。

アーニャさんの活動歴は、冷戦の終了後、地域紛争や民族紛争が頻発する時期と重なる。大学卒業後、フリーランスとして最初に関わったのがベルリンの壁崩壊と自分の国であるドイツ再統一だった。その後、EPA(European Press Photo Agency)での活動を手始めに、この20年間、旧ユーゴスラビアのクロアチア、ボスニア、コソヴォ、リビア、イラク、パキスタン、アフガニスタンなど、戦闘が続く地域で撮影を続ける。

AP通信のジャーナリストとなったのは2002年からで、以後も一貫していわゆる“戦争ジャーナリスト”の道を歩いた。“戦争を取材しなければ本物のジャーナリストではない”との信念だった。

しかし、彼女は単なる従軍記者ではない。彼女の目は戦闘に巻き込まれる一般の人たち、軍内でも嫌々ながら戦闘に送りこまれる最下階級の兵士など、常に立場の弱い人たちの苦難に焦点を当ててきた。

●「サラエヴォでセルビア人勢力に包囲され、狙撃される恐れに怯えながら通りに買い物に出る人々」

●「警備兵が狙撃されたのを見て駆け戻り、救助しようという通勤途上の女性」

●「イラクのファルージャでバックパックに子供が遊ぶ兵隊人形をくくりつけて戦場に出かけるアメリカ軍兵士」

●「破壊されたファルージャの町をパトロールするアメリカ兵に思わず立ちすくみ耳を塞ぐ少女」

●「アフガニスタン北東部の仮兵舎の入り口で小さな箱にローソクを灯し、一人自分の誕生日を祝うドイツ人兵士、

●「(NYのタイムズ・スクウェアに掲載された)アフガニスタンの街角に立つカルザイ大統領の大きな肖像画」

●「一人、凍りついた高山の峠に立ってアフガニスタン側を警戒するパキスタンの兵士の後ろ姿」

●「重傷を負い医療ヘリで搬送されたアメリカ軍兵士が数カ月後、頭蓋帽子をかぶって懸命にリハビリに励む姿」

●「出撃命令を受けた瞬間に一般兵士たちが垣間見せる不安と恐れの表情……」

写された一人一人の思いや生活、家族を考えさせる写真が多くの感動を呼んで、「国際女性メディア基金」賞をはじめ、いくつもの賞を受賞し、2005年には同僚とともにドイツ人ジャーナリストとして初めてピュリッツァー賞を贈られている。

彼女は常に“最適の場所に最適の時にいる”と言われるくらい、写真が現実感をともなって見る者に迫ってくる。彼女の死亡後、英『BBC』は彼女の撮影した写真を何枚も注釈付きで紹介している。

また英『ガーディアン』紙は、かつて同じ戦場で活動した彼女のAP通信の同僚記者の手記を、また独『シュピーゲル』誌は友人記者の手記を紹介している。

かつてはベトナム戦争帰還兵が帰国後に精神に異常をきたし、多くの事件を引き起こし社会問題になった。今もアフガン戦争やイラク戦争から戻った兵士たちが精神異常(いわゆるPTSD症候群など)の症状になり、事件を引き起こしている。先日もテキサスの米陸軍フォード・フード基地で、兵士が銃を乱射する事件が起きたばかりだ。この兵士は現地で戦闘には参加しなかったものの、戦場の過酷な現実を見てやはり精神に異常をきたしたと見られている。

兵士ほどではないかもしれないが、戦争ジャーナリストにも多かれ少なかれ影響を受ける人たちがでるのも当然かもしれない。

アーニャさんの同僚や友人記者たちは言う。戦争ジャーナリストの中には、過酷な現場を目の当たりにして性格が変わり、気難しくなったり、孤独感に苛まれたり、冷笑的で世の中を素直に見ないようになったりする人が多い。しかし、彼女はいつも一般の人と変わらず、笑い、喜び、怒り、悲しんで、知らない人たちは、彼女が筋金入りの戦場ジャーナリストとは感じられなかったろう。

だが、彼女も、いくつもの陰惨な現場に居合わせている。サラエヴォでは一家の乗る車が手りゅう弾攻撃を受け、家族全員が死亡した。その遺体の残片が破壊された車の窓などにこびりついていたのを目撃している。

また、彼女自身も何度も危険な体験をしていた。「クロアチアでは銃撃に遭い、幸い防弾チョッキを着けていて助かった」「サラエヴォでは毎日のように、いわゆる“狙撃兵通り”を文字通り、ウサギのように逃げながら取材をした」「セルビア人警察官が車で意図的に彼女を殺そうとし、片足を轢かれた。たまたま通りかかった人たちが、彼女を病院まで連れて行ったが、誰も治療をしてくれない。数時間後、同僚が探し出し、医師を説得して簡易手当だけした。そして同僚が警察官に100マルクの賄賂を払って彼女をドイツに搬送。何度かの手術の末、ようやく活動を再開できた」

APの同僚は、命を落としそうになった体験にもかかわらず、彼女はユーモアを愛し、またどんな苦しいことも笑い飛ばしていたという。ボスニアで見つけて可愛がった野良犬は、当時のガリ国連事務総長の名“ブトロス・ブトロス”と呼んで楽しんでいたという。

“戦場に行くのは簡単なことではない。しかし、戦場から心身ともに無傷で脱出するのはさらに簡単なことではない”とかつてアーニャさんは言っていたという。

彼女は常に精神の安定を心がけていた。愛用のカメラを“小さな防御者”と呼び、過酷な現実をレンズを通して見るので、いくぶん抽象化された(これも心の平安を保つのに役立った)といっていた。

戦場を離れると、いつもドイツ中部の町カッセル郊外の家族の農場に戻り、伝統のソーセージやサワークラウトを作って、自然に囲まれた平穏な暮らしを愛したという(これも精神面の均衡を保つのに良かったのだろう)。

生涯一ジャーナリストを貫いたアーニャさんを語る逸話がいくつかある。“最適の場所に最適の時にいる”彼女の勘の冴えを物語った写真の経緯だ。

当時のブッシュ(子)大統領が、感謝祭にアフガニスタンの米軍駐屯基地を電撃訪問した時だった。アーニャさんも米軍に招かれ久々の御馳走を食べていたが、入り口や角に警備兵が立ち始めたのに気づく。ひとつのテーブルのシチメンチョウの御馳走は手がつけられないままだ。とっさに“何かある”と思いカメラを構える。そこにブッシュ大統領が現れ、シチメンチョウの皿を両手で持つ。あの一枚は彼女が撮った一枚だった。

こんな逸話も『シュピーゲル』誌が紹介している。2006年、ハーヴァード大学のニーマン・ジャーナリスト・フェローシップ(Nieman Fellowship for journalists)に受け入れられた。しばらくして、世界有数の大富豪ウォレン・バフェット(Warren Buffet氏の知己を得、夕食に招かれた。

その席でバフェット氏が、フェローとなるとハーヴァード大学に“数万ドル支払わねばならないのを知っているか”と尋ねた。彼女は“エー!”と驚いて“知らなかった”と口ごもった。彼女が素直にためらうのをバフェット氏は楽しんだようだが、その場でフェローの支払金額を書いた小切手を手渡したという。

豪胆で戦場での身の処し方は知るが、世渡りや世間の営みには少しうとい、そんなアーニャさんの一面が出ている。

ピュリッツァー賞受賞後、美術館などから“貴女の写真は芸術だ“と讃えて、写真展を開きたいとの申し込みが相次ぐ。しかし彼女は“私の写真は芸術ではない。戦争の現実を出来るだけ正確に描こうとしただけだ”と答えたと言う。

アーニャさんが合意して開いた数少ない写真展が、最近までベルリンで開かれていた。

かつての同僚たちによると、友人のジャーナリストが不当にイラク当局に拘束されたと聞いて、わざわざバグダッドまで飛んで交渉し、友人を釈放させたという。

サラエヴォで、常時狙撃兵に狙われ食料の買い出しもままならないという状況下、アーニャさんは防弾チョッキを車の窓ガラスに張り、前方が見えないくらいに低い姿勢のまま猛スピードで運転し、食料を確保して戻り仲間に分け与えたという。確かにできる限りの備えはするが、やはり我々には無謀とも豪胆ともいえる性格を物語っている。

サラエヴォには4年間住み、困難な体験をともにした地元の人たちやジャーナリスト達とは、社や国籍を超えて連帯感が強まり、最後まで交流を続ける仲になった。

筆者も米海兵隊の基地などで簡単な訓練を受け、少しばかりは戦争取材の真似ごとをしたが、アーニャさんが一体いかにしてユーモアと不屈の精神を持ち続け、過酷な現場に向き合って来られたのかは想像するばかりだ。

アーニャ・ニードリングハウスさんは、“不正に対しては闘う”“友人は見捨てない”“最下層の人の声を発信する”という姿勢を貫いた。

【DNBオリジナル】

photo:Anja Niedringhaus