追悼:マレーシアの“抑圧された人たちの闘士”、イレーネ・フェルナンデス氏、死去(大貫 康雄)
行方不明のマレーシア航空370便の乗客の大半が中国人だったことに象徴されるように、マレーシアは経済成長著しい中国や諸外国の富裕層・中間層にとって人気の旅行先となっている。しかし、その一方で差別や抑圧が進行している国でもある。
そのマレーシアで、外国人労働者や難民、女性などの抑圧された人たちの権利擁護にいち早く立ち上がり、“抑圧された人たちのための闘士”と讃えられたイレーネ・フェルナンデス(Irene Fernandez)さんが、3月31日に心不全で死去した(67歳)。
教師になったイレーネさんは、経済成長の陰でマレーシア社会に労働者や女性、少数民族等に対する抑圧が横行するのを目にする。しばらくボランティア活動に関わった後、23歳で教職を捨て、91年、繊維工場労働者の労働組合設立を支援、女性差別の撤廃と女性の権利擁護活動を推進する「Tenaganeta(女性の力)」を組織する。
また、消費者への情報提供、消費者教育の向上や、より安全な農薬の導入に尽力する。
イレーネさんの社会問題に対する活動を際立たせたのは、豊かになったマレーシアの各地で、見捨てられたままの貧困者や悲惨な環境に置かれている外国人・移民労働者の権利の擁護に立ち上がったことだった。
マレーシアにはインドネシア、フィリピンなど、周辺各国からの労働者が6人に1人の割合に増加していた。
イレーネさんは「外国人労働者は雇い主に旅券を取り上げられ、食糧も満足に与えられず、奴隷さながらの労働を強いられている」と声を挙げた。これに対し、当時のマレーシア政府は不法入国の外国人労働者ら合わせて50万人を強制送還するなどした。
イレーネさんの活動が国際的に知られたのは、95年、政府に拘束された外国人労働者300人以上に面談・取材し、殴打やレイプ、満足な水も食糧も与えられず、怪我をし、病気になっても満足な治療も受けていない実態を新聞に発表した時だった。
これに対し、マレーシア政府は“虚偽のニュースを悪質に報じた”と翌96年、イレーネさんを逮捕する。
担当検察官は“国家の評判を落とした”と糾弾し、“報道の自由は、貴女のいうような自由ではない。国益や公益を侵害することは許されない“などの理由を挙げてイレーネさんを起訴。
(今後、日本の特定秘密保護法でも充分あり得る事件だ)
この事件は世界的な関心を呼び起こし、国際的な人権擁護団体がマレーシア政府を批判する一方で、イレーネさんに多くの賞が与えられていく。
98年にはアムネスティ・インタナショナル賞が与えられ、2000年には国際PEN賞、また2004年にはWHOのエイズ撲滅担当としてエイズ患者救済の充実を訴えたジョナサン・マン(Jonathan Mann)氏にちなんだジョナサン・マン賞を贈られた。
さらに2005年には、現代社会の切羽詰まった問題に実際的で模範になる解決策を示した者に与えられ、名誉の点でノーベル賞とも比較される“ライト・ライヴリフッド(Right Livelihood)賞を贈られている(この賞は97年、市民原子力情報室の設立者、故・高木仁三郎氏も贈られている)。
一審は7年続き、2003年に1年の懲役刑を言い渡される。収監後、氏の控訴で仮釈放されるが、旅券は裁判所に押収され、また刑の確定者として選挙への立候補を禁止される。
控訴審は2008年10月28日開始され、11月24日に一審判決が覆される。逮捕されてから実に17年、一審の有罪判決から13年経っての無罪確定だった(裁判を長引かせ、活動家や政治家の生活に打撃を与え、行動範囲を制限するのは権力側の常套手段。日本でも裁判の長期化は内外から批判されている)。
イレーネさんはその後も人権擁護の活動を進め、2012年、インドネシアの新聞に“マレーシアは外国人労働者や移民労働者(の権利)を守る法律も取り組みもなく、外国人労働者にとって安全な国ではない”と語って再びマレーシア政府の怒りを買う。
イレーネさんは、1946年当時イギリス領のマレーシアにゴム園従事者として移住したインド人の両親のもとに生まれる。人権抑圧や政治・社会問題を意識したのは、ゴム園の管理職となっていた両親から「労働者の子どもとは遊ぶな」と言われた、身分差別を感じさせる体験だったという。
イレーネさんは“収監中も裁判中も闘争心を失わなかった”、“収監体験はきちんと報じ、何を改革すべきかを提示するのだ”などと各国のジャーナリストに語っている。
最後まで“抑圧された人たちのための闘士”としての生涯だった。
【DNBオリジナル】
Taken By Calvin Teo June 2005