下村文科相が竹富島に押し付ける国家主義的な思想教育(大貫 康雄)
下村博文文部科学大臣は、地域が決めたものと異なる「社会公民」の教科書を採択した沖縄県の竹富町(島)に、地区と同じ教科書を使えと直接の是正要求をした。
これに対し15日、「竹富町の子どもたちに真理を教える教科書の採択を求める町民の会」など、地元の3つの団体が下村・文科相に抗議し、是正要求の撤回を求める声明を発表した。
小さい自治体の声だが、“歴史の見直し”“表現の自由”“教科書のあり方”に関して、いくつもの重要な問題を提起している。
マスコミは事の重大性を認識した報道をするべきだろう。
竹富町(島)は400人に満たない人々が住み、住宅一軒一軒が昔ながらの様式で瓦の色などを統一している。環境に調和した家並みと、伝統に根ざした生活を維持していて、その美しさは映像を見るだけでもよくわかる。独特の島の言葉はユネスコに消滅の危機があると指摘され、風習とともに保存されている。
この町の人たちが、自分たちの歴史を誠実に教えるために選んだ教科書を今、一国の政府が直接介入して是正させようとしている。この構図は、ダヴィデとゴリアテの対立以上に異常だと言わざるを得ない。
下村文科相は、自分たちに都合の悪い情報は教えず隠し、都合のよい価値観を押しつけようとする現代の「踏み絵」をしようとしているようなものだ。
何故、下村文科相はこれに執着し、法規定を盾に国家権力乱用を推し進めようとするのか? 1年前この欄で紹介したアメリカ議会調査局が、すでに安倍政権の本質を看破した報告を出しているので思い起こしてもらいたい。
報告では「下村博文」と名指しで、個人の尊重でなく国家主義的思想教育を進める安倍政権のイデオロギーの推進者ととらえていることがわかる。それが現実になっているのだ。
アメリカ議会調査局に指摘されるまでもなく、竹富町だけの問題ではない。これを見逃していけば安倍政権は日本全体で、あらゆる場でさらに国家主義的な思想教育を推し進める危険がある。
それなのに、この問題で日本のマスコミは、「富町のある八重山地区の採択に従わず別の教科書を採択した」とか、「地方教育行政法では市町村が教科書を採択できるが、教科書無償措置法では地区と同じ教科書の採択を規定している」(強制力はない)などと、にかく手続き論を報じ、二つの教科書の何が異なるのかを詳しく報じようとしない。
これでは本質を見誤る。
その点、NYタイムズ(13年12月29日付)は、議会調査局同様、“問題はイデオロギー問題であること”と、核心を突いた指摘をしている。
要するに下村文科相が要求する教科書(育鵬社)は、戦争中の悲しい歴史や、在沖米軍基地の現状を軽視し、かなり国家主義的な色彩の記述であることがわかる。この教科書は歴史の見直し、現状無視の一工作と見ることができる。
他方、竹富町が採択した教科書(東京書籍)は、町や村が戦場と化し、家族・友人をはじめ多くの人々が犠牲になった沖縄戦のことや巨大な米軍基地が存続する沖縄の現状など、戦争がもたらす現実を記述し、平和について考えさせるようになっている。
竹富町の人たちが子どもたちに平和の大切さを教えるため、東京書籍の教科書を採択するのは極めて自然で素直な決定だろう。
それを竹富島の人たちの意見も聞かず、島の歴史や現実を見ることもなく、下村文科相のいうように、政府が勝手に“決めたことを守る責任!?”などと一方的に押し付けられても、それは受け入れられない。押し付ける方に無理がある。島の人たちの言い分は至極もっともなことだろう。
安倍政権の誰に、そしてどこに、辛い歴史を体験した島の現実、人たちの思い、そして平和への真摯な思いを踏み躙る権利があるとういうのだろう。
教科書は安倍政権の国家主義的本質を子どもたちに叩き込むのに格好の手段で、ひとつの有効な洗脳の手段だ。
安倍政権が小さな島の決定だからと言って見逃さないのは、国家主義的野望が背後にあるからだと考えざるを得ない。
この教科書問題は、ひいては「言論統制」「報道の自由の制限」「人権の制限」などに通じるもの。
竹富町の人たちだけの問題ではなく、我々一人一人に関わる問題だ。小さな町と文部科学省の対立と軽視してはならない。
竹富町の人たちの静かで、しかし不屈の意志を尊重したい。
【DNBオリジナル】
Photo:Maru0522