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ビキニ核実験から60年。あらためて被曝を考える(大貫 康雄)

1954年3月1日、西部太平洋ミクロネシア・マーシャル諸島のビキニ環礁(Bikini Atoll)で、アメリカの水爆実験「キャッスル作戦(Operation Castle)」により水爆「ブラボー(Bravo)」が炸裂。そのため、周辺の海域でマグロ漁中の日本漁船「第五福竜丸」(焼津港所属)の無線長・久保山愛吉さんが、重度の被曝のため半年後に亡くなった(これについては2012年8月の「平和祈念式典を軽視する大手メディア」http://op-ed.jp/archives/2949でも触れているので参照されたい)。

このビキニ事件60周年を機に、核問題ジャーナリストの豊崎博光さんと『ニコニコNOBODER』で対談をした(2月25日に放送)。ご覧になった方もいるかもしれないが、参考のため豊崎さんの主な指摘を列挙しておく。

●ビキニ水爆実験で「死の灰」をかぶった日本漁船は、全国で856隻(高知新聞)から1000隻とも言われる。実験後、日本各地18の漁港で「原爆マグロ」400トン以上が投棄された。当時、船着き場があった築地でも、大量のマグロが地中に埋められた(現在は築地市場正門脇に「マグロ投棄」の祈念板がある)。

●その後も北太平洋で捕獲されたマグロ(の表面)の放射線測定が行われたが、放射線が計測されなくなったとして1954年12月で打ち切られる。

●放射能が水中でマグロの体内に取り込まれる体内被曝の問題は無視された(しかし、当時の政府調査団によると放射能物質で汚染された海域のマグロは食物連鎖で内臓に放射能物質がたまっていた)。

●漁業関係者の被曝は全国2万人に上ると見られるが、第五福竜丸の乗組員ら一部を除き、満足な健康診断も行われなかった。

●漁船の除染も不徹底で、船上で出漁準備などの作業をした人たちも被曝した(今年2月26日夜9時のニュースでは、NHK静岡放送局の記者が、第五福竜丸の乗組員だけでなく、次の出漁準備に当たった人たちも被曝し、幾つもの被曝症状があらわれていたことを報じた)。

●ビキニ環礁では戦後何回も核実験が行われ、ビキニ島の人たちはアメリカ軍によって他の島への移住を強いられていた。54年3月1日の核実験では大量の「死の灰」が島に降り注ぎ、人々の被曝が深刻になった(当時の高知新聞ビキニ事件について特集を組んで実態を多岐にわたって報じている)。

●実験後、アメリカ軍は島の除染を進め、放射能濃度が居住可能まで下がったとして68年8月、島の人たちの帰還を許した。しかし、間もなく島の人たちから多くの疑問が出され、あらためて汚染調査を実施。78年に再度避難。その後、多くの人に深刻な被曝症状が出ている。

●マーシャル諸島共和国政府はIAEAにも調査以来、その結果IAEAは98年“(地元で食糧を得る生活をするとなると)定住に適さない”との結論を出している(経費が膨大になることや技術面での限界もあり、米軍の除染は居住地域とその周辺だけに限られた。短期間の帰還は可能と地元政府は言うが)。

●アメリカ軍は特殊部隊を動員してビキニ環礁など周辺諸島の除染を実施。この部隊の防護服内部が鉛で覆われ、放射線から身を守るようにできている。また空気中の放射性物質を口や鼻から吸い込む内部被曝を防ぐため、宇宙飛行士のようなヘルメットをかぶり空気中の放射性物質を除去した空気を吸えるようになっている(福島原発で除染作業に従事する人たちの防護服は残念ながら、とても十分なものではない)。

豊崎さんはマーシャル諸島の被曝者が故郷に帰還して元の生活に戻ることは不可能で、「網を使わずみんなで魚を岸辺に誘い込む漁法」「捕った魚を老人から子供までみんなで平等に分ける生活」「祭りや儀式で使う独特の言葉」などを覚えて伝える人も少なくなった。人々からは伝統、文化、言語、生活様式、共同体のすべてが奪われてしまった。

それが核被害のもたらす最大の悲劇だという。

【DNBオリジナル】

ビキニ環礁での核実験

photo:U.S.

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豊崎さんとの対談の様子はこちら