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カラヤンが認めたマエストロ、クラウディオ・アバド氏死去(大貫 康雄)

若くしてカラヤンに認められ、ウィーン国立歌劇場交響楽団やベルリン・フィルの常任指揮者を歴任するなどした最高指揮者のクラウディオ・アバド氏が20日、イタリア・ボローニャの自宅で胃がんのため亡くなった(80歳)。

昨年、ルツェルン音楽祭オーケストラを率いて久々の日本公演が予定されたが、健康状態の悪化のため取りやめられていた。

個人的なことで恐縮だが、筆者はクラシック音楽が好きだ。日本のクラシック音楽の愛好者は、人口の10%程度と聞く。「聴く機会が少ない」「聴かず嫌い」の人が多いためかも知れない。マエストロの再度の来日公演が死去で実現しなかったのは惜しい限りだ。

マエストロは33年、ミラノの高名な音楽家の両親の元に生まれた。両親の演奏する音色を聞きながら育つというクラシック音楽に囲まれる子ども時代を経て、父が校長を務めるベルディ音楽院で学んだ。19歳の時にトスカニーニの前でバッハの協奏曲を演奏して認められている。

その後ウィーンに移って指揮を学び、デビュー。この時、ヘルベルト・カラヤンに才能を認められ、早速ザルツブルク音楽祭で指揮者デビューをする。続いてベルリン・フィル、ウィーン・フィル、ドレスデン管弦楽団などの客演を重ね実績を積み上げていく。

68年、イタリア・オペラの殿堂ミラノ・スカラ座の指揮者、ついで音楽監督、芸術監督等を経る。その間、ロンドン交響楽団の首席指揮者を務め、一流のオーケストラに育て上げる。

86年オペラ界世界最高のウィーン国立歌劇場管弦楽団の音楽監督となると、ロシアや東欧のオペラも演奏するなどウィーン国立歌劇場のレパートリーを広げる。ウィーン国立歌劇場管弦楽団員は、大半がウィーン・フィル団員からの出向。自然にウィーン・フィルとの共演を重ねることになる。90年カラヤン後任の芸術監督としてベルリン・フィルに選出され、名実ともに現代最高の指揮者としての地位を確立した。

個人的に印象深いのは92年ベルリン・フィルと共に初来日した時だった。あっという間に入場券はすべて売り切れ。そこで“若いフアンのために”と公演を特別に一回追加。成田を発つ直前にNHKホールで第9を振った。たまたま豪雨の日で、楽器にとっても最悪の気象状態。団員はリムジンバスに荷物を載せたまま会場に入り、音合わせや調整、リハーサルの時間もないままのぶっつけ公演だった。そのため第一楽章は雑音だけが奔走した感じで共鳴しない。“一体何だ!?”と首をかしげながら聴いた。

しかし、間を置いて第二楽章に入った途端、見事なハーモニーに変わった。そのまま第4楽章、合唱までなだれ込み、満場圧倒的な雰囲気の内に終わった。

“こんなことができるとは?” マエストロの指揮とベルリン・フィルの力量を強く印象づけられたのを記憶している。

マエストロは2000年、後年、死の病となる胃がんで倒れ、ベルリン・フィルを辞任(後任はサイモン・ラトル)。健康を持ち直した2003年以降は、自分が設立に寄与したルツェルン祝祭管弦楽団を主に指揮。また若手音楽家のために自分が設立したモーツァルト管弦楽団、マーラー管弦楽団などとの活動が多くなった。2006年にはルツェルン祝祭管弦楽団と来日している。この時は機会を逸したが、夏のルツェルンで一度、マエストロの体全体を使いながらの力強い指揮を聴く機会があったのは幸運だった。日本公演を予定しながら果たせずに去られたのが残念でならない。

【DNBオリジナル】

[caption id="attachment_18615" align="alignnone" width="153"] 故・クラウディオ・アバド氏[/caption]

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Emile Myburgh