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【訃報】ネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領逝去(大貫 康雄)

12月5日に亡くなったネルソン・マンデラ元南アフリカ大統領の国葬に、日本からは政府首脳ではなく、皇太子が参列することに決まった。ASEAN(東南アジア諸国連合)特別首脳会議と日程が重なるというのが、その理由だ。

一方、世界70カ国の首脳は日程を調整し、10日の追悼式か15日の国葬のいずれかに参列を予定している。

マンデラ氏は自由と人間の尊厳、そして何といっても「和解(と平和)」を推進したとして世界に大きな影響を与えた人物。それがメディアで伝えられ世界に感銘を与えた。

マンデラ氏の死去に際する日本の反応は、総理の通り一遍のお悔やみ発言だ。マンデラ氏の理念とは反対に国民の自由を制限する法律制定に躍起になっていた最中である。欧米各国の反応に比べ日本の現政権の対応に物足りなさと存在感の希薄さを感じる。

マンデラ氏死亡の日、欧米のテレビ・ラジオは随時、関連のニュースを流し、中でも南アフリカの旧宗主国イギリスの『BBC』国際放送はほとんど一日中、マンデラ氏関連の中継放送を続けた。『NYタイムズ』は、社説でもマンデラ氏の功績を讃えつつ、後継者の問題点を指摘している。

マンデラ氏の闘争を知って政治家になった米オバマ大統領、ともに人種間の平等と融和を進めて強い友情で結ばれていたクリントン元米大統領をはじめ、欧米各国の首脳が、各々の信条・理念をもとにマンデラ氏の足跡を具体的にあげて死を悼む発言をしていた。また、欧米メディアは南アフリカ社会がどう変化したかなどのリポートをこの原稿を書いている時点でも続けている。

アパルトヘイト・人種隔離体制への抗議活動では、多くの活動家が命を落とし長期間投獄された。マンデラ氏は厳しい取り調べや27年間の獄中生活で健康を害した。それにもかかわらず、政権を担った後は復讐や処罰ではなく抑圧者をゆるし、和解を進め、人種間対立の克服に努めた。

“黒人政権による復讐、弾圧者の追及が始まる”との人々の懸念とは正反対の政策を実践した。その理念と指導力が南アフリカ国内だけでなく、欧米各国で圧倒的な評価を受けた。

マンデラ氏が単なる政治指導者の枠を超え親愛と尊敬を集めたのも、人々に他の政治家とは異なる存在感を与えたからだろう。

マンデラ氏は94年に大統領に就任すると、“平和”こそが新しい国づくりに不可欠であり、人種間の溝を埋める和解作業であることを熟知していた。

復讐や処罰では新たな反発を招き、さらに混乱状態に陥る危険がある。復讐ではなく、一体、何がいかにして起きたのかという真実を追求しつつ、その蛮行を罪に問わずにゆるし、民族間の和解を進める「真実和解」委員会を立ち上げた。アパルトヘイト体制下の殺人、拷問など弾圧を行った人物に真実を証言させ、その上で罪に問わずゆるす。長年の弾圧で多くの人々が犠牲になっていた。被害者が次は加害者になる悪循環を断ち切るべきとの強い信念があったと思われる。

誰もが困難と思われたこの画期的な試みは、国民の尊敬を集めるマンデラ氏であればこそ可能になったといえる(この「真実和解」について、きちんと意義を理解した日本人記者がいる。当時NHKの国際記者だった山本浩氏だ。氏のテレビ・リポートだけでなく、その取材をもとに著した力作『真実と和解~ネルソン・マンデラ最後の闘い』NHK出版・1998年出版も参考にしてもらいたい)

マンデラ氏は、人々が等しく自由を享受できる国づくりには「和解」が最も重要だと考えていたことがわかる。氏が釈放後すぐに発した言葉は、氏が1960年代に取った武装路線の誤りを認めた自己批判だった

そして、和解のために南アフリカの若者が一緒にスポーツをする効用も認識していた。南アフリカの白人だけでなるラグビー・チームが国際試合で勝利すると率先して祝福し、白人、黒人双方を驚かせた。そしてこの時、祝福された選手の娘の名付け親にもなっている。

大統領就任の日、就任祝いの集まりを欠席してサッカー場に行って南アフリカチームを応援した。黒人も白人も同じく南アフリカの国民としての一体感を共有できる機会にした。

マンデラ氏の生涯は、冷戦の最盛期から終焉を迎える時代とともにあり、氏はその象徴でもあった。獄中にあった27年間は冷戦期で、全体主義国での人権侵害への批判が強まり、共産主義国家ではないがアパルトヘイト政策を続ける南アフリカへの批判が年を経るごとに強まっていた。音楽家や文化人によるマンデラ氏釈放を求めるコンサートなどが催された。こうした世論に押される形でレーガン政権下の80年代初め、アメリカ議会は南アフリカへの経済制裁を可決。レーガン政権も駐在大使にアフリカ系の人間を任命するなど圧力を強化し、ヨーロッパ各国も経済制裁を進めていた。

一方、日本政府の対南ア政策はもっぱら通商・貿易に偏り、企業の駐在員は“名誉白人”という奇妙な扱いを受けていた。

個人的な記憶では89年夏以降、マンデラ氏釈放の機運が急速に高まったのを覚えている。89年11月のベルリンの壁崩壊。12月3日に米ブッシュ(父)、ソ連ゴルバチョフの両首脳がマルタ島で会談し、“冷戦終了”を宣言。欧米の主要メディアはもちろん、NHKや日本の新聞・テレビも特派員をマルタ島に派遣した。

この時、米『ABC』の討論番組「Night Line」のキャスター、テド・コペル(Ted Koppel)氏はただ一人南アフリカに行き、一週間、連日時間を延長してマンデラ氏釈放とアパルトヘイト撤廃を訴える特集番組を組んだ。南アフリカの白人政権が、黒人活動家を次々と釈放していた時、一連の番組では南アフリカ各地の現実が報じられた。最終日の討論会では、アパルトヘイトが終わりつつある雰囲気、そして新しい時代への人々の熱気が現れていた。

当時、アメリカに駐在していた筆者は、テド・コペル氏の確信に満ちた気迫を感じた。

89年中に黒人活動家らがほぼ全員釈放された後の90年2月11日、ただ一人残されていたマンデラ氏が釈放される。まもなくANC(アフリカ民族会議)議長に就任。91年、当時のデクラーク南ア大統領とともに全人種代表が参加する「民主南アフリカ会議」招集……と続き、91年6月、アパルトヘイト体制を支える人種差別関連法律を廃止する。マンデラ氏との一連の協議を経たアパルトヘイト体制廃止には、白人内の保守強硬派を抑えて決断したデクラーク大統領の功績も忘れてはなるまい。マンデラ氏にはすでにサハロフ賞が贈られていたが、93年ふたりにノーベル平和賞を贈られる)

マンデラ氏が一期で大統領職を退き政界を引退したのは、南アフリカに民主主義制度を定着させるためでもあり、引退後は後継者の政策に口をはさむことは控えた。

ただ、性について保守的な南アフリカの土壌に甘んじ、エイズ対策に取り組まないタボ・ムベキ(Thabo Mbeki)政権には苦言を呈した。現ジェイコブ・ズマ(Jacob Zuma)大統領の腐敗政治にも少なからず不満を抱いていたようだ。今や貧富の格差が黒人間でも拡大しており、犯罪も多発し、マンデラ氏の目指した政治状況からは程遠い状態になっている。

また、外交面ではブッシュ(子)政権のイラク戦争を厳しく批判した(厳しい批判を受けたブッシュ〈子〉元大統領は今回、“マンデラ氏へのわだかまりはまったくない”とオバマ大統領の誘いを受け、夫人と共に国葬に参加の予定。国葬には病弱なブッシュ〈父〉氏を除きクリントン夫妻、カーター元大統領が参列する)。

マンデラ氏を個人的にインタビューする機会はなかったが、イギリス駐在中にロンドンを訪れたマンデラ氏を間近に見た時、偉大な指導者というより氏の気さくさ、人懐っこさを感じた。決して尊大な態度はない。警護の警察官や報道陣さえいなかったら、誰とも気軽に話し合うごく普通のおじいさんという感じだった。日々、顔を合わせる人たちを引き付ける人間としての魅力があったのだろう。後に映画化されたが、ロベン島刑務所時代、看守の話すアフリカーンス語を学んで会話を重ね、彼らの心境を知って対応、看守の尊敬を受けるようになったのはその例だろう。

なぜか、ダライラマ14世を思わせる人懐っこさ。南アフリカでは大統領、“国父”というより“マディバ(Madiba)”の愛称で呼ばれたそうだが、それこそマンデラ氏が、多くの人々の親愛の情に囲まれるゆえんかもしれない。

マンデラ氏の追悼式は10日、マンデラ氏が楽しんだヨハネスブルクのサッカー場で、また国葬は15日、故郷ケープタウンの東のクヌ(Qunu)で行われる。

【DNBオリジナル】

by Mbx

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