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サハリン・日本人の物語が続く島(2)「サハリン日本人会」(後藤 悠樹)

サハリンと聞いて私が最初に思い浮かべるのは、日本人会(北海道人会)事務所の部屋だ。この事務所はサハリンの中心地ユジノサハリンスク(旧豊原)のジェルジェンスカヤ通り。五階建てのビルの中の三階にある。

[caption id="attachment_15999" align="alignnone" width="620"] ユジノサハリンスク駅前広場近く。
玉音放送後の1945年8月22日、この付近ではソ連軍による爆撃があった(2009年撮影)[/caption]

エレベーターやエスカレーターは、もちろん設置されていない。うす暗いコンクリート製の階段を上り、三階に着くと右手に進む。

各フロアの中央には真っ直ぐに廊下が走り、その両脇には小さな部屋がいくつも並んでいる。途中、開け放たれた部屋からは、机の上にちょこんと置かれたロシアの国旗や、壁にかけられたプーチン大統領の大きな写真が目に入り、政治関係であろう、難しいロシア語もたくさん聞こえてくる。ひょっとしたらこの建物は、ここがロシアであることを最も意識させられる場所なのかも知れない。ロシアの与党である統一ロシア党の事務所も同じフロアにある。

そんな小部屋を横目に通り過ぎていくと、突き当たりの左側に日本人会の事務所がある。うす茶色の木製の扉には、「在サハリン北海道人会」と日本語とロシア語で表記された紙がセロハンテープで貼ってあり、まだ新しい建材の匂いがしていた。

私が長期滞在していた2009年には、事務所は廊下を挟んで二部屋あり、ひとつは事務作業用、もうひとつは昼食やイベント用などに使われていた。この事務所は、ロシア側(ユーラシア大陸の残留日本人も含む)から日本への一時帰国や永住帰国などに関する書類の作成、会員の実態把握などの実務をこなしていた。当時の常駐メンバーは、一世の植松キクエさん、宇藤百合子さん、白畑正義さん、そして日系二世のカーチャさんの4人。代表は白畑さんが務め、パソコン作業は主にカーチャさんが担当。日本から送られてくる書類などの翻訳サポートは植松さんと宇藤さんが対応していた。

[caption id="attachment_16000" align="alignnone" width="620"] 昭和7年樺太豊原生まれの宇藤百合子さん。
ソ連時代は醤油や味噌等も手作りしていたという。
その行程を伺うと、驚くほど細かい部分まではっきり説明してくれた。
2010年に植松さんとともに札幌へ永住帰国(2009年撮影)[/caption]

この事務所にいると、ユジノサハリンスクに用事のあった一世や二世などがふらっと立ち寄って、ドーナツやピロシキなどを差し入れていく。そして、ある人はお茶をしながら世間話をし、またある人は成長した自分の子どもの顔を見せに来ては、どこか事務所のメンバーを気遣うように、短い時間を過ごしていった。サハリンの日本人にとってこの事務所は、心の拠り所のひとつであり、もっとも安心できる場所でもあった。ソ連時代、敗戦民族であることをひた隠し生きてきた多くの日本人たちにとって、ここはオアシスのような存在なのだろう。

少しでも気を抜くと、激動のロシアの風に吹き飛ばされてしまいそうなこの会をとても大切にしていることがはっきりと伝わってくる。私もサハリン各地を訪ね歩く日々、自分でも気がつかないうちに神経をすり減らしていく中で、扉に貼られた日本語の紙を見て、何度安心感を覚えただろう。この扉を開けるといつもそこには、暖かく迎えてくれる人々がいた。

[caption id="attachment_16001" align="alignnone" width="620"] ユジノサハリンスクの事務所にて、カーチャさん(左)と白畑さん(2013年撮影)[/caption]

 

(3)に続く

【お知らせ】

11/19 (火) ~11/25 (月) ※10:30~18:30(最終日は15時まで)

ニコサロンbis 新宿にて、後藤悠樹氏の写真展「降りしきる雪、その一片が人を満たすとき あれから三年 -MOMEHT-」が開催されます。

http://www.nikon-image.com/activity/salon/exhibition/2013/11_bis.htm#04