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【第6回】フクシマの声〜私たちの活動は“町おこし”ではなく“町残し”なんです/橘弦一郎さん(久保田 彩乃)

Voice Of FUKUSHIMA~福島に生きる人たちの声~【第6回】( 橘弦一郎さん)

福島県双葉郡浪江町は、東京電力福島第一原子力発電所から距離が近く、今回の事故で、多くの町民が全国に避難しており、現在も町の大部分が「帰還困難区域」となっている。

今回お話を伺ったのは、浪江町で被災し、現在は郡山市で暮らしている橘弦一郎さんだ。橘さんは平成14年に、福島県にある不動産会社に入社し、浪江町に移り住んだ。住み始めて約9年、町に溶け込み、暮らしを楽しんでいた中での被災。新築した自宅は、わずか1年あまりで住むことができなくなってしまった。今も自宅のある地域の放射線量は高く、一時的に帰ることはできても自宅の中を片づけることはできない。

「震災後、一時は家族で滋賀県に避難しましたが、一か月後の4月12日に福島に戻ってきて、郡山で生活を始めました。郡山から仕事場のある南相馬支店までは片道2時間ですが、やっぱり福島のために何かしたいという思いがあったからです。しかし、その時、南相馬支店のスタッフは全員避難していて、ひとりもいませんでした」

橘さんは当時のことを振り返る。

「通勤時間の長さもキツかったのですが、それ以上にこたえたのは苦情の電話です。南相馬市では、多くの人が家や家財道具などをそのままにして避難していましたから、『アパートの家賃をもらってくれ』と大家さんから催促の電話が来るんです。避難で家を空けているとはいえ、契約は続いているわけですから、大家さんからすれば当然の主張です。そこで市役所で避難者名簿を借り、避難所などにいる借り主さんに連絡を取りました。すると今度は借り主さんから『原発が爆発してこんなに大変なのに家賃とは何ごとだ』と怒られるんです。また、そのことを大家さんに報告すると『そんなこと聞けるか、説得するのがお前の仕事だろ』と言われます。その繰り返しなんです。挙句、再び借り主さんへ電話をすると『うちはもう南相馬には帰らないから、家の中の荷物を処分してくれ』と。それで引っ越し屋さんに電話すると、放射能が怖いということで引っ越し屋さんが来てくれないんです。水道を止めたくても水道屋さんも来ない。こんなやりとりを毎日70本から80本もしていたら、私も精神的にまいってしまいました。家に帰ると毎日『死にたい、死にたい』と言っていましたよ」

そんな、ボロボロになっていった橘さんの心の支えとなったのが奥さんだ。

「本当に疲れきっていたある朝、妻が『私も一緒に行くよ』と片道2時間の通勤に付き合ってくれたんです。本当は妻は避難先の滋賀においてこようと思っていたんです。でも、妻は私のことが心配だからと言って一緒に福島に戻ってくれたんです。妻がいなければ、あの時の状況を乗り切るのは本当に無理でしたね」

橘さんの勤める不動産会社は震災前、浪江町に2つ、富岡町に1つ、南相馬に1つの店舗があった。それが震災後は南相馬の店舗だけになった。その後、新しく郡山支店ができ、橘さんは現在、郡山支店で仕事をしている。

「社長があまりにも辛そうにしている私を見て、郡山に支店を作ってくれたんです」

社長への恩を感じ、橘さんの表情が少し緩んだが、同時にプレッシャーもある。

「今はとにかく、少しでも早く郡山で基盤を作らなければという焦りがあります。不動産屋は、人脈と情報のふたつがあって成り立つ商売です。でも、今は地名もわかららければ土地勘もないので、とても難しいです。毎日、一から勉強しています」

不動産会社の社員として福島に貢献するという他に、橘さんにはもう一つの仕事がある。

浪江町にいた頃から、ご当地B級グルメ「浪江焼きそば」を使っての町おこしに携わってきた。全国各地のイベントに参加し「浪江焼麺太国(なみえやきそばたいこく)」というキャッチフレーズで、現在も浪江町の広報活動に力を注いでいる。

「滋賀県に避難していた頃は、もう二度と福島に戻らないつもりでいました。でも、それまで一緒に町おこしをがんばってきた仲間たちに『俺は福島には帰らない』とは言えなかったんですよね」

この活動を続けるには理由がある。震災前にある先輩から言われた言葉が心に残っているからだ。

「家庭と地域と企業の3つがうまくいかないと幸せにはなれないと言われたんです。例えば家庭だけが良くても、その家族が住む地域が衰退すれば、そこにある企業もダメになる。企業がダメになれば給料が下がる。また、企業がダメになれば、町から介護施設や保育施設などの福利厚生も減ってゆく。すると家庭の幸せもなくなってしまうだろってね」

浪江町に移り住み、町の商工会青年部に入った当初は、商工会に参加する意義を見いだせずにいたという。だが、この言葉で考え方が変わり、その後は積極的に活動に参加するようになった。浪江町は自分中心の考え方が一変した場所であり、みんなに支えられて生きているということに気付いた場所でもあったという。

「一時は、浪江焼きそばを求めて、年間10万人のお客さんが浪江町に来るようになったんです」

浪江焼きそばの人気も徐々に広まり、活動が一層盛り上がってきた矢先の原発事故だった。

「この活動はもう終わりだ」と橘さんは思ったという。しかし、滋賀県に避難していた橘さんに、浪江焼麺太国メンバーの一人から電話があった。

「一緒に町に関わっていかないか」と。

そして、震災から一か月半がたった時、彼らの活動が再開した。

「もう夢も希望もなくて、将来どうしていいかわからない状況でも町民に元気を取り戻してもらいたい。そして、浪江町の被災や避難者の状況を全国に伝えたいと思ったんです。原発事故があった当初、福島県にはメディアがほとんど入ってきませんでした。マスコミは岩手県や宮城県にばかり行っていました。報道の仕方も岩手県や宮城県はもうガレキの片づけを始め、前を向いて歩き始めているというものばかり。福島の状況なんてまったく伝えてくれない。そこで誰かが伝えなければと思い浪江焼きそばで『B-1グランプリ』に出て、イベントの中で浪江町の現状を伝えて行こうと思ったんです」

ほぼ毎週末、県内外のイベントに参加しては、浪江町の現状をお客さんに伝え続けてきた。

それから約2年半……。

「お客さんの反応ですごく残念なのは『浪江町ってどこ?』とか、『あなたたちまだ帰れてないの?』と言われたりすること。それが「そもそも原発事故なんてあったの?」というニュアンスに聞こえるんですよね。事故がどんどん風化がされているんだと身に染みて感じています」

現在、橘さんには1歳3か月になるお子さんがいる。郡山市で生まれた。今は全国の人たちだけでなく、浪江町の子供たちにふるさとをどう伝えていくかを模索している。

「浪江町は縁もゆかりもなかった場所なのに、住んでみたら大好きになった町なんです。すごく魅力がある土地だったんですよね。そして、一緒に活動している浪江焼麺太国メンバーにとっては生まれ育ったふるさとです。そんなみんなと一緒に町おこしをしていく中で、教えられたことがたくさんあります。そうした思いを子供たちに届けたい。彼らが大人になった時に胸を張って浪江町出身だと言える状況にしたいんです」

橘さんは言う。

「町がこれからどうなるかわはわかりません。帰れるようになっても、帰ってくる人、帰ってこない人、それぞれいるでしょう。ですが、帰らない人にとっても浪江町は大切なふるさとなんです。町がこれからどうなっても、浪江町で暮らしていたことを記憶に留めていてほしい。今の私たちの活動は“町おこし”ではなく“町残し”なんです。」

http://www.namie-yakisoba.com/ (浪江焼麺太国公式HP)

[caption id="attachment_15894" align="alignnone" width="620"] なみえ焼きそばを広める、浪江焼麺大国のメンバー[/caption]

 

[caption id="attachment_15895" align="alignnone" width="620"] 橘弦一郎さん[/caption]