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サハリン・日本人の物語が続く島【1】(後藤 悠樹)

今、私の手元には七年前に取得したパスポートがある。

その最初のページ、ではなく何故か3ページ目に押された最初の出国記録は2006年4月4日となっている。

当時、まだ学生だった私の初めての海外行きとなったその行き先は、ロシア・サハリンだった。20歳の時だった。

[caption id="attachment_15376" align="alignnone" width="620"] ロシア側の入国スタンプ。
この時は稚内から船で入ったので、スタンプに船のマークがある。
ロシアは日/月/年の順番で記述する[/caption]

 

それから七年経った今でもサハリンに関わる事となるとはまったく思いもしなかったが、写真家の活動を通し知り合う人々には「なぜサハリンに行かれたのですか?」とよく聞かれる。

[caption id="attachment_15377" align="alignnone" width="620"] サハリン南西部の小さな町、トマリに残された鳥居と私。
神社の本殿部分は壊されており、礎のみ残っていた。
なお、鳥居には「皇記二千六百年」と刻まれたいた(2013年撮影)[/caption]

誤解を恐れずに一言で言ってしまえば、“行ってみたかっただけ”だと思う。

写真学生だったということもあり、周囲には沢木耕太郎さんの『深夜特急』(新潮文庫)に影響され、実際に陸路と海路のみでロンドンまで旅をしたバックパッカーや、各国での生活経験のある帰国子女など、普通に生活するだけではなかなか出会えない個性的な面々が集まっていた。

そんな中で、高校を卒業したばかりの私には何もなく、どうしても、どこか日本以外の国へ行きたかった。何か自分だけのストーリーを強烈に求めていた。そんな身勝手な自己実現のために海外へ行くことを求めた十代の若者が、渡航先を決定するにあたり、定めた条件は主に三つあった。

(1)情報が少ない

(2)日本と何かしらの関係がある

(3)北国

(1)は当然、自分だけのストーリーを求めた結果であった。多くのバックパッカーや旅行者などは、アジアや比較的気候の穏やかな地域へ向かう。そこへ今さら私が向かっても、結局、彼らの経験をなぞるだけで、自分だけのストーリーになるとは思えなかった。情報の少なさを求めていた。

(2)は初の海外ということもあり、突然、インドなど日本とかけ離れた文化圏へ行くのではなく、せめて感覚的にだけでも世界と日本との繋がりを感じたかった。

(3)はアラスカを拠点に活動していた写真家の故・星野道夫さんの影響があった。彼の写真や著書からは影響を受け、北国に対する思いがあった。

ある日、これらの条件を念頭に世界地図を眺めていると、北海道のすぐ北に細長い島がある事にふと気がついた。しかも、島の北緯50度以南を境に南半分が点線で区切られ、南極等と同様に白色で表現されてた。それはつまり、統治国家が確定していない空白の土地という意味だった。

[caption id="attachment_15378" align="alignnone" width="620"] 稚内からサハリンのコルサコフ(旧大泊)へ向かう。
サハリンへは約五時間半の船旅。
フェリーよりうっすらとサハリンの島影が見えるが、そのなだらかに広がる景色は、
稚内のものとよく似ている(2006年撮影)[/caption]

 

多くの日本人と同様に、私の最初の印象は「こんなところに、こんな島あったっけ?」というものだった。

それまでの決して短いとはいえない私が生きてきた約19年間、さんざんテレビの天気予報や世界地図などで、この島を目にしてきたはずだったが、本当にその時気がついたのだった。それがサハリン(樺太)と私の最初の出会いだった。

それからというもの、私はサハリンについて調べ始め、やがて吉武輝子さん著『置き去り サハリン残留日本人女性たちの60年』(海竜社)にたどり着いた。

そこには、私のまったく知らない日本の歴史が書かれていた。

1945年8月15日以降も日ソ間で行われた地上戦のことや、家族を守るためにサハリンとなった樺太に残ることを決めた多くの日本人女性のこと。日本時代、朝鮮半島から募集や徴用で樺太に渡り、戦後もそのまま残留してしまった樺太コリアンのこと。

その本が書かれた2005年時点で、約300名の日本人一世がいまだサハリンに住み続けているという。

北海道最北端の宗谷岬から、サハリン最南端のクリリオン岬まではわずか約43キロの距離。日本からソビエト連邦、そしてロシア連邦へと統治する国家が変わった土地、そしてそこに住む日本人やコリアン、そしてロシア人。

彼らの生活は現在どうなっているのだろうか、見てみたかった。

日本人の歴史や意識からすっぽり抜け落ちてしまったようなこの島に、私は行くことを決めた。

[caption id="attachment_15379" align="alignnone" width="620"] この頃のユジノサハリンスク(旧豊原)は
まだまだソ連時代を引きするような雰囲気があった。
街の人々の身なりや建物、市場で取り扱う商品も現在ではかなり変化している[/caption]

[caption id="attachment_15381" align="alignnone" width="620"] プリゴロドノエに残された記念碑。
先端部分は雪で埋もれ見えなかったが遠征軍上陸記念碑と書かれており、
年号は1905年となっている。
近くにはLNG工場があり、撮影していると
警備人からすぐに立ち去るように急かされた(2009年撮影)[/caption]

以後2006年4月よりサハリンへ定期的に通うようになり、2009年には念願だった長期滞在することができた。

[caption id="attachment_15382" align="alignnone" width="620"] 植松キクエさん。現在89歳。北海道生まれ。2010年に札幌へ永住帰国。
戦後、サハリンからの引き揚げを待つ間、朝鮮半島出身者との間に妊娠が分かる。
日本へ引揚げた後の子どもに対する民族差別や、
その後夫となった朝鮮半島出身者は引き揚げ対象とされていなかったことから、
家族で唯一サハリンに残留した。
東西冷戦状況下、彼女が日本へ一時帰国し、
自身の家族と再開出来たのはそれから約30年経った1976年のことだった。
1946年当時の話しを聞いた際に、涙ぐみながら話してくれた事をよく覚えている(2006年撮影)[/caption]

これから少しずつ、私がサハリンで経験したエピソードや写真を紹介していきたい。

【DNBオリジナル】