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日本人初!ヨーロッパ公立劇場の舞踊芸術監督になった森優貴 インタビュー[前編](高橋 彩子)

日本人がドイツ・レーゲンスブルク劇場舞踊部門の芸術監督・主席振付家になる。そんなニュースが飛び込んで来たのは、一昨年のこと。日本人の名は森優貴、当時34歳。2012/2013シーズンにこの役職に就任した彼が語る、芸術監督業と今後の展望とは——?

[caption id="attachment_14614" align="alignnone" width="600"] 芸術監督としての活動を伝える現地の報道[/caption]

突然やってきた、芸術監督の仕事

「怒濤の日々でしたね。舞踊の芸術監督就任の話をいただいてから最初のシーズンが始まるまで、1年を準備に費やし、実際に始まってから1年。2年間かけたプロジェクトが一段落した感覚です」

森優貴は、1978年生まれ。兵庫の貞松・浜田バレエ団を経て、97年 にドイツのハンブルク・バレエ学校へ留学。これまで、ニュルンベルク・バレエ、ハノーファー・バレエ、ヨーテボリ・バレエ、ヴィースバーデン・バレエと、いずれもヨーロッパで、ダンサー・振付家として活動してきた。とくに、ハノーファー・バレエとヴィースバーデン・バレエを率いる振付家シュテファン・トスからの信頼が厚く、幾つかのプロダクションでは彼の下でバレエマスターも務めていた。そんな森の転機もやはり、トスからもたらされたものだった。

「レーゲンスブルク劇場の新しい総支配人に決まったイェンス・ノインドルフは、シュテファン(・トス)が以前所属していたドレスデンゼンバーオペラ劇場の同僚だったんです。それでシュテファンのところに、舞踊部門の芸術監督に適した人材はいないかと相談があったらしくて。僕はちょうど、オーストリア・インスブルック・ダンスカンパニーから委嘱され、シェイクスピアの『オセロー』を原作とする僕の作品『Mein Herr, Othello』を振り付けたあと、1週間の休暇でパリに行っているところでした。突然、シュテファンから電話があり、『やるべきだ』『来シーズンがユウキのうちでの最後のシーズン』『再来年にはレーゲンスブルクで…』と言われて、ちょっと待って〜!と(笑)。僕としてはもうちょっとシュテファンのもとで踊りたかったし、育って来た若手の面倒も見たかった。カンパニーでも振付作品を発表していたので、しばらくはその状態を続けるつもりだったんです。でも、ドイツでは、州なり市なり、劇場支配人、芸術監督等の人事異動が一回動き出すと、次にいつ機会があるかわからない、フリーにはいつでもなれるんだから、と説得されました」

ドイツ人のトスはなぜ、ドイツの芸術監督に日本人の森を推薦したのだろうか?

「ハノーファー時代からヴィースバーデン時代まで、10年以上、シュテファンのもとでやってきたのは2〜3人。その中でコンスタントに振付もやってきたのは僕だけでした。だから、ノインドルフから『シュテファンの様な芸術性を持つ若くてアクティブな振付家を』と話があった時、僕を推薦してくれたんです。シュテファンとは仕事の1年目から、お互いにしっくり来たんですよね。これまでも、彼に『やる?』と言われて、何でもやってきました。教えられることを全部教えてくれたし、サポートもしてくれた。父子みたいな関係。といっても、年齢は13歳しか違わないんですけど。彼は僕に、いつもすべてを伝えてくれたし、最終的にはそれらをユウキの手で次の世代に伝えてもらうことが自分の願いであり、今回、彼の下から巣立つ理由でもあるのだと、そう言って僕を送り出してくれましたね」

こうして、森は、総支配人になるノインドルフと面談し、正式に舞踊芸術監督に決定した。レーゲンスブルク劇場は、オペラ・演劇・舞踊・青少年のための芝居の4部門からなり、ノインドーフはオペラの監督を兼任。なお、オーケストラの音楽監督には偶然にも、同じ日本人の阪哲朗が09年から就任している。

[caption id="attachment_14625" align="alignnone" width="480"] 森優貴[/caption]

 

複雑極まる職務内容

日本人として恐らく初めて、ヨーロッパの公共劇場の舞踊部門芸術監督になった森。その職務とは一体、どのようなものなのだろうか。

「総支配人と財務総監が劇場のツートップで、劇場自体は市なり州なりの管轄になっています。レーゲンスブルクの場合は市ですから、僕ら芸術監督は全員で、市の評議会に出向き、プログラムを提出します。評議会が全面的に反対することはまずないですが、内容に関してもう一つかな?ということになったらノーが出るし、質問をたくさんされますし、記者会見などもやらなければならないので、そういうところでのコミュニケーションは必須ですね。あと、会議。毎週火曜日、朝9時から、各部門の芸術監督と経理部・人事部・美術部・技術部・マーケティング部・広報部のトップなど、10〜14人が集まって話し合います。例えば集客に関しては、一ヶ月のスケジュール表を見ながら、今週はどれだけパーセンテージが上がったか、上がっていなければどこにどう宣伝をしたらいいか、検討したりします」

スタジオ内での作品の創作自体は、森が以前から行って来たことで、大きな変化はない。大変なのは、外部との交渉・折衝だ。

「予想外に苦労が多かったのは、ダンスの制作の仕方を、周りの部署に理解してもらうこと。例えばオペラは、新演出になったとしても、楽譜や、手本となる過去の演出がありますが、僕らは何もかもゼロから作るので、時間、ダンサー、音楽のチョイス、コンセプト、スタジオ環境などすべてのコンディションが揃わないと制作できない。前任者はネオクラシック系の振付家で、つまり、普段のバレエレッスンの延長で動きを作ることができていたので、『今まではやってこれたのに、なんでユウキに変わってからできないの?』と言われることも。だから、僕たちがやっているダンスとは、プロダクション毎に新しい言語をみつけることであり、それを自分たちで完璧に理解し、会話ができるようになり、それを観客が聞いて理解できるクオリティにまでもっていくことなので、オペラや演劇とは同じ制作期間でも使い方が違うし、代役を一人立てる際の困難も異なるんだと、説明しなくてはなりません。とはいえ、常に説明してばかりいると、逆に聞いてもらえないこともあるので、ピンポイントで、効果的に言うことが大切です」

劇場内でのスケジュール調整もかなり複雑な作業だという。

「集客が難しい日程は避けて公演を組み立て、回して行く必要があります。制作期間が6週間あるとしても、そこにミュージカルやオペレッタのプログラムも入って来るので、並行してできるのかできないのか、できないなら何故できないのかを分かってもらわなければいけないし、オーケストラ団員の労働法にのっとってスケジュールを確保しなければならなりません。日本で言う“友の会”みたいな年間会員システムが、月曜日会員とか、日曜日午前の会員・午後の会員・夜の会員とか、オペラ全部の初日+舞踊とお芝居が一つずつつく会員とか、コンビネーションがものすごく沢山あるのも悩みの種ですね。とりわけ慌ただしいのが、秋。11月の公演の初日を迎えるや否や、その公演と並行して、冬の公演のための創作に取りかかるのですが、土日祝日を除くと、冬の創作期間は実質1ヶ月。さらにその間に次のシーズンのプログラムを決めて評議会に出さなければならないんです」

劇場の舞踊部門の芸術監督であり、主席振付家でもある森。様々な役割を果たさなくてはならない。

「その時その時で、“○○仕様”っていうのがたくさん必要で。一人になることがまず、ないんですよね。きっと、自分が思っている以上に、神経を使っているんだろうなと思います(笑)」

 

[caption id="attachment_14616" align="alignnone" width="620"] 劇場スタッフたちと。右から二人目が総支配人ノインドルフ[/caption]

[caption id="attachment_14620" align="alignnone" width="300"] レーゲンスブルク劇場の外観[/caption]

[caption id="attachment_14617" align="alignnone" width="480"] レーゲンスブルク劇場の内部[/caption]

 

レーゲンスブルクの街とともに

世界遺産に指定されているレーゲンスブルク。池田理代子の少女漫画『オルフェウスの窓』の舞台になったことでも知られる街だ。ちなみに森はこの漫画を読んではいないが、かつて宝塚歌劇団が舞台化したものを観ているという。というのも、森がバレエを始めるきっかけになったのは、5歳から参加していた子供ミュージカル。その演出指導が、宝塚歌劇団の岡田敬二と小池修一郎だったのだ。小池は今年の春にも、森の舞台を観にレーゲンスブルクを訪れたそう。

「レーゲンスブルクは、バイエルン州の街という土地柄上、コンサバティブではありますが、大学があるので若者が多く、“ドイツの中のイタリア”と言われるほど、活気があります。劇場が数少ない娯楽の場で、フェスティバルもあるし、ダンスが根づいている印象ですね。そして、先入観なく、取り敢えず見てみようというオープンな姿勢で劇場に足を運ぶ人が多いです。舞踊部門の前任者にはファンも多かったみたいですが、だからこそ、若い日本人が新任してきて、良い意味で興味を持たれたというか。僕はこの前まで現役のダンサーだったので踊ってみせることもできるし、新鮮に受け止めてもらったのだと思います」

代々、劇場を応援している家もある。友の会は無視できない存在だ。

「彼らのサポートは大事だし、彼らから来たイベントなどの依頼は極力受けなければならないのですが、会議でもよく話題に上るのは、彼らを満足させること=我々の最終的な目的、ではないということ。向こうは”私達の劇場”という感じで接してきますが、どこでどう遮断するか、その線引きは常に課題ですよね」

最初のシーズンで森は、ワーグナーをテーマとする新作『Ich,Wagner.Sehnsucht!(私、ワーグナー。憧憬!)』を発表した。ワーグナー生誕200年に、ドイツの劇場で彼を題材とする創作を行うことは、外国人が日本で歌舞伎の演出をするようなもの……と例えたら、言い過ぎだろうか?

「支配人のノインドルフからの提示だったんですが、ドイツ国内の他の劇場では、こういうダンスの企画は一切なかったですね。引き受けた後、(ワグネリアンの聖地である)バイロイトも近いし、ワーグナー協会もあるし、大変なところに手を出しちゃったなと(笑)。でもとにかく、ワーグナーの人生に対して、僕自身が共感できる部分などから、彼の人生をオムニバス形式でまとめました。第一幕は、最初の妻ミンナと出会い、マティルデ・ヴェーゼンドンクと知り合い、コジマとルートヴィヒ2世に会い、バイロイトに到着するまで。ワーグナーのドッペルゲンガー的な存在として、ヴィジョンというキャラクターを男女1人ずつ登場させ、ワーグナーの想像力、理想を象徴的に表現しました。第1幕の中盤、『トリスタンとイゾルデ』の「愛の死」を、ヴィジョンの2人が官能的なデュエットを踊るのですが、ここでは最初に舞台奥でピアノがリスト編曲版を弾き、その音がフェードアウトするのと同時にオーケストラの演奏に切り替わるようにして。作曲家のコアという意味合いを出すために、ピアノにこだわったんです。オケに切り替わった瞬間から、当時タブーであったにもかかわらず惹かれ合っていたといわれるワーグナーとマティルデ・ヴェーゼンドンクが踊り出します。なぜなら、『トリスタンとイゾルデ』はマティルデ・ヴェーゼンドンクとの内密な交際が無ければ生まれていない作品ですから。こうして、第1幕はストーリー物として綴って来たところを、第2幕でパツンと切って、そこからは一転、ワーグナー自身の憧れ、求め続けて来た情景をアブストラクト(抽象)風に表しました」

前半と後半での作風の激変、生演奏でピアノからオーケストラに入れ替わるという趣向など、かなりチャレンジング。実は初日直前、支配人のノインドルフから1幕と2幕を入れ替えたらどうかと言われ、「アリバイとして」やってみせたという。しかし、いきなり抽象作品から始まると、後半とのつながりがわからない。前半の具象的な表現があってこそ、後半の意味がわかってくることを、森もドラマトゥルクたちも主張し、最後にはノインドルフも納得して、予定通りの順序で初日を迎えた。

「観客の反応はすごく良かったです。盛り上がっていました。関係者みんなから『よくやったね』と言われて。支配人も満足していましたね。バイロイトからもジャーナリストが何人か来たのですが、すごく気に入って3回観てくださり、バイロイトの雑誌にも記事として取り上げていただきました」

こうして、2012/2013シーズンのハイライトとも言うべき公演は、成功裡に終わった。

[caption id="attachment_14618" align="alignnone" width="620"] 『Ich Wagner. Sehnsucht!』より[/caption]

[caption id="attachment_14619" align="alignnone" width="620"] 『Ich Wagner. Sehnsucht!』より[/caption]

 

【後編につづく】(http://op-ed.jp/archives/14789)

 

レーゲンスブルク劇場ウェブサイト

http://www.theater-regensburg.de/home.html

 

森優貴ウェブサイト

http://yukimori-opaquevase.jimdo.com/