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チリで起こった40年前の9・11事件(大貫 康雄)

スペイン国営放送『TVE』は9月11日、世界の主要メディア同様、アメリカで起こった「同時テロ事件」から12年目のこの日、ニューヨークとワシントンで追悼集会が開かれたと報じた。

しかし、それとともにチリでの9・11クーデター事件から40のこの日、首都サンチアゴでは今なお民主化が不十分だとして、学生や労働組合員が抗議のデモを展開し、警官隊と衝突したと伝えた。

チリだけでなく、南米の人たちにとって9月11日は、アメリカでの同時テロ事件より、アメリカに支援されたチリ軍部が選挙で実現した社会主義政権を打倒した(クーデターの)日として記憶されている。

1970年、チリは自由選挙でサルヴァドール・アジェンデ(Salvador Allende)大統領が就任し、南米初の社会主義政権が誕生した。

アジェンデ政権は福祉政策の充実、独占企業の国営化などを進めていたが、富裕層や右派・軍部の反発が強く、またアメリカも冷戦体制下で南米の社会主義政権を半ば公然と批判していた(クーデターまでの経緯は、この欄で書いたイランのモサデク政権打倒と類似している)。

社会主義大統領の選出を嫌う米CIAは、アジェンデ大統領選出の可能性が濃くなった7010月から軍首脳にクーデターを持ちかけていた。

しかし、時のチリ陸軍総司令官レネ・シュナイダー(Rene Schneider)は「軍は政治的に中立であるべき」との信念の持ち主で、CIAの働きかけを拒否。するとシュナイダー総司令官は大統領選挙決選投票の前に銃撃されて間もなく死亡。この事件で軍の一将軍が逮捕されると、チリ国民は逆に“民主主義を守れ!”と団結して立ちあがり、自由選挙でアジェンデ政権が誕生する。

これに対しアメリカのニクソン政権は、チリの主要輸出品を拒否するなど経済制裁を行ない、キッシンジャー米国務長官は、アジェンデ大統領支持の主要政党を反対派に転向させていく。

また、CIAは他の軍幹部たちを籠絡し、資金援助をして右翼組織を作らせていく。

1973年6月に計画されたクーデターは失敗するが、アメリカは暗殺されたシュナイダー総司令官の後任でやはり「軍は政治的に中立であるべき」というカルロス・プラッツ(Carlos Prats)総司令官を軍内部の圧力で辞任に追い込む。

そのプラッツ総司令官の後任が、ピノチェト将軍だった。40年前の9月11日、ピノチェト(Augusto Pinochet)総司令官下のチリ軍は、陸と空から大統領宮殿を爆撃し、アジェンデ大統領は戦いの最中に銃で自殺したと見られている。

実権を握ったピノチェトは、軍部独裁を強め、社会主義者、民主主義者、労働組合員、学生、芸術家などを次々に拘束。各地に強制収容所を建設した。

そして、誘拐、拷問、殺害を実行し、チリに恐怖政治を展開する。

アルゼンチンに逃れたプラッツ将軍と夫人は、チリの秘密警察DINAの車爆弾で暗殺される。ワシントンにいたアジェンデ政権国防長官のオランド・レテリエル(Orlando Letelier)も後、車爆弾で暗殺される(この事件で、時のカーター米大統領は態度を硬化させ、以後、アメリカ政府とピノチェト政権の関係は冷え込んでいく)。

1972年にノーベル文学賞を受賞したチリの詩人・パブロ・ネルーダ(Pablo Neruda)は、ガンで自宅療養をしていたが、クーデターの日、症状が悪化したため救急車で病院に向かう途中、軍の検問で引きずりおろされるなどして症状が悪化。そのまま病院で死亡する。自由や民主主義をうたう書物が次々と焼かれる。

一方で、いわゆるシカゴ学派・ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)の標榜する新自由経済政策を導。福祉政策を無視し、国営企業の民営化が進む。鉱工業生産指数など、いわゆる表向きの経済指標は改善していくが、失業率が上昇。やがてハイパー・インフレに見舞われる。貧富の格差が拡大。中産階級は崩壊を始める。チリの鉱物資源、農産物は米企業によって低価格で売られ、国民の多くが貧困層に落ちていく。

ピノチェト政権が新自由主義経済政策の失敗に気づくのは12年後だった。シカゴ学派を追放してケインズ政策に軌道修正し、ようやく経済が安定を回復する(安倍政権の経済政策には新自由主義経済政策の色が濃いところがある。同じ轍を踏まないことを祈るのみだ。なお、時の日本は与党自民党と民社党がクーデターを支持。民社党は党の調査団を派遣してピノチェトと会見。帰国後、塚本三郎団長は、クーデターを「天の声」と称賛する)。

チリ国民を20年近く弾圧し、発展を妨げたピノチェトは、冷戦の終結とともに最終的にアメリカに見放される。民政移管の後、90年大統領を辞任。チリで徐々に民主政治が回復するが、ピノチェトは生涯陸軍総司令官の座に留まる。

国際社会の圧力もあって2004年、弾圧、誘拐殺人、虐殺、不正蓄財などの罪に問われたが、裁判所は高齢と健康状態を理由に罪状を棄却。2005年、全財産が差し押さえられたが、2006年ピノチェト自身は罪に問われないまま死亡する。

チリでは間もなく大統領選挙。与野党とも女性候補で、結果のいかんに関わらず、チリには女性大統領が登場する。女性大統領の下で民主主義が促進されるのではないかとの期待が高まっている。

アジェンデ大統領

by Revista Argentina "Siete días ilustrados"

from http://commons.wikimedia.org/wiki/File:S.Allende_7_dias_ilustrados.JPG?uselang=ja

Biblioteca del Congreso Nacional - Chile

from http://commons.wikimedia.org/wiki/File:AllendeMinistros.jpg?uselang=ja

 

注:当初はタイトルを「9・11はチリにとって、アメリカに支援された政権を倒したクーデターの日」 としていましたが、「チリで起こった40年前の9・11事件」と変更しました(DAILY NOBORDER編集部)