ナチスに消滅させられた村を訪れた独大統領。その胸の内は……(大貫 康雄)
ドイツのヨアヒム・ガウク大統領(Joachim Gauck)が9月5日、ドイツの大統領として初めて、ナチス占領下のフランスで起きた最悪の虐殺事件の村・オラドゥール・スュル・グラーヌ(Oradour-sur-Glane)をフランスのフランソワ・オランド大統領(François Hollande)と共に訪れた。
ガウク大統領は「今のドイツは過去の歴史を直視する異なる国になった」と改めて和解と平和を誓った。
この訪問にフランスのテレビ局は3時間の生放送を行い、ドイツのテレビ局も厚く報道した。
放送には単なる形式的な訪問ではない、個人として、また一国の代表としてのガウク大統領自身の真摯な深い心情の吐露と見識が現れ、フランス国営放送の『F2』は“歴史的な”との言葉を使い高く評価するなど両国国民から極めて好意的な反応が示された。
オラドゥールはフランス中西部リモージュに近い村。軍事拠点でもなければ産業もない小さな村だったが1944年6月10日、突然ナチスの親衛隊に襲われ子どもや女性を含む村人642人が虐殺された。生存者はわずかに6人だった。
ナチス親衛隊が平和な村を何故襲撃したのか? “対独抵抗運動・レジスタンスによって親衛隊幹部一人が誘拐され、村人の多くが関与したとの(未確認)情報をフランス人の密告者から得たための見せしめの復讐だ”との説があるが証拠もなく確認されていない。
廃墟となった村は、戦後、フランスのドゴール大統領(de Gaulle)によって虐殺犠牲者追悼の場として、そのまま保存され、毎年30万人が訪れた。また、1999年にはシラク大統領(Chiraqc)によって村に祈念博物館が作られた。
ガウク大統領会見での言葉は個人の心情を素直に吐露したものでもあった。
“1940年生まれで戦争も知らなかった自分が、戦後ドイツ人というだけで先の世代が犯した罪のために自己嫌悪にさいなまれるのは大変困難なことだった。しかし年月を経て、ドイツを代表する立場になって、歴史を考え、その冷厳な事実に立ち向かえるようになった”など……。
ドイツの大統領として、そして一個人として今回の招待を心から謹んで受け、訪問が心を震わせるものであったことを率直に語っている。
また訪問の最後に「今のドイツは過去のドイツと全く異なる国になった。ドイツ国民は過去の苦い歴史と対決し、困難を克服してドイツを良い国民の住む国にした」とも語り、フランス人に一層の友好と協力を誓っている。
これに対し、オランド大統領は「ガウク大統領が尊厳を保って招待を受けてくれたことに敬意を表する」と述べた。
今回の訪問が多くのフランス人を感動させたのは、心情を率直に吐露した演説もさることながら、やはりガウク大統領個人の普段の信条が自然に現れた一挙手一投足、その姿勢にあると筆者は考えている。
『F2』のカメラは大統領の動きを克明に追った。ガウク大統領はオランド大統領と共に廃墟を巡り、子どもや女性が閉じ込められて虐殺された教会に入ると両者は自然に手を握り合った。中でもガウク大統領はひと際姿勢を低くしていたのが印象的だ。
生存者の老人が加わるとさらに固い表情で手を強く握りしめる。そして犠牲者の慰霊碑に献花をするとどちらともなく3人暫く肩を抱き合った。周囲の人たちも声を発することなく静かな時が過ぎる。最後に訪問者名簿に署名するガウク大統領の目には涙が溢れるのをカメラは捉えていた。
ガウク大統領はプロテスタントの牧師で、旧東ドイツ時代からの人権活動家であり、人権の擁護には強い信念を持っている。大統領就任後は、これまでもナチス時代の虐殺事件のあったチェコのリディツェ村(Lidice)やイタリアのサンタナ・ディ・スタツェーマ(Sant’Anna di Stazzema)を訪れている。
こうしたガウク大統領の経歴と姿勢に、ガウク大統領を“ドイツのマンデラ”(英Daily Telegraph)とか“ドイツの良心”などと呼ぶ外国メディアさえある。
フランス人を感動させた背景には、戦後の歴史的経緯がある。オラドゥール村の虐殺は、これまで戦後フランス人の心の奥にある澱のようだった。
1953年虐殺に関与したとして、ナチス親衛隊の当時の現地司令官ら65人が軍事裁判にかけられたが、審理は困難を極めた。旧東ドイツ在住の容疑者は東ドイツが引き渡しを拒否。またドイツ北西部在住容疑者はイギリス占領軍が引き渡し要求を無視するなどして出廷したのは21人だけだった。
1954年2月11日、20人に有罪判決が言い渡されたが、国内で大論争が起き、19日にフランス議会は14人に恩赦の決定を下し、すぐに釈放された。
14人はアルザスのフランス人(ドイツ系)で、アルザス地方では軍事裁判に強い批判が巻き起こり、フランスからの分離を叫ぶ者も出たためと言われる。一方、オラドゥール村周辺自治体全域では、恩赦への批判が起こるなど国を二分する論争になった。またドイツ人服役囚6人も58年に全員釈放された。
この背景には冷戦体制下、ヨーロッパの復権を目指すフランス政府の政策の影響もあったようだ。
63年、フランス・ドイツ両国は今日のEUに至るまでのヨーロッパ統合の基盤となる、ドゴール・アデナウアー(Adenauer)両首脳の独仏友好条約・エリゼー条約を締結する。
その後84年(第一次大戦開戦から70年後)、フランスのミッテラン大統領(Mitterrand)とドイツのコール(Kohl)首相が、第一次大戦最大の激戦地ヴェルダン(Verdun)に両手を握りあって立つ(この姿は独仏和解とヨーロッパの平和安定の象徴として西側諸国に感銘を与えている。個人的には、ある会合に同席した東京駐在のベルギーの老外交官が涙を流して語ったのを記憶している)。
また翌年85年(戦後40年)のドイツ降伏の日(ヨーロッパ勝利の日)の式典では、ドイツのワイツゼッカー(Weitzaecker)大統領が「過去に目をつぶる者は今日においても盲目となる」という演説をし、ヨーロッパの強調を謳う。
2004年の連合軍ノルマンディー上陸記念日には、ドイツのシュレーダー首相も参加するなど両国首脳の和解と友好の努力が続いた。しかしオラドゥール村に政府首脳が訪れることはなかった。こうした戦後の経緯もあり、オラドゥール村は、戦後フランス人の複雑な対独感情の源泉になっていた。
その後、ドイツでは2010年、ナチスの戦争犯罪に時効をなくし、また歴史家が新たに発掘した資料に基づき、オラドゥール村虐殺事件の被告が新たに特定され裁判が始まっている。
過去の戦争犯罪を裁き、近隣諸国との真の和解と友好を進めるドイツ。そのドイツには、こういう人格者の大統領が登場する。この国の姿勢を日本の戦後の取り組みを比較して考えるのもムダではない。
photo by Michael Lucan
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