参院選直前! あえて「憲法とは何か?」を考える(大貫 康雄)
今回の参議院議員選挙は、争点が多く拡散し、有権者にとっては焦点を絞りにくい選挙となっている。
特に安倍政権が政府の借金を増やす経済活性化で、人々の生活が向上するかのような期待感を振りまいていることもあって、安倍政権最大の狙いの改憲案の実態と影響を有権者が考えにくい状況を作り出している。
そこで、以前この欄でも紹介した先輩ジャーナリストの大治浩之輔氏から、憲法を考えさせる論考を頂いた。氏が6月17日付で「憲法とはなにか」と題し雑誌「マスコミ市民」に寄稿したものだ。
安倍氏がなぜ、憲法第96条を変えたいのか。なぜ第96条が重要なのか。次の第97条との関係、第9条、一人ひとりが尊重されることを規定している第13条、そして天皇や摂政も現憲法を尊重し、擁護する義務を明記した第99条など現憲法との関係を説いている。
さらに憲法は、権力者の手を縛るものであり、それゆえ改変手続きを一項であっても通常の法律を超えて厳しくしている世界の常識を指摘している。
第96条を変えようとする安倍氏の憲法に対する論理倒錯、非常識ぶりも突いている。
大治氏は、現憲法が我々ひとりひとりの尊厳にとっていかに大事なものかを考え、ひとりでも多くの人が今回の選挙に、そして今後の政治を判断して頂きたいとして、この欄で紹介するのを快く了承して頂いた。
若干長い文であるが、熟読する価値のある文であり、読んだ上で家族や友人と考えて頂ければ幸いである([ ]内は筆者による)。
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憲法とは何か 大治浩之輔
Ⅰ 第96条 憲法改正手続き
自民党の憲法改変の論議のなかでも、安倍首相が音頭を取った96条先行論は、自民党の『憲法改正草案』の本質をよく現わしている。
96条は縛りの要。憲法は国民が国家権力を縛るもの。
新憲法が公布され施行されたとき、15年戦争から第二次世界大戦まで、国家権力が推進した戦争の惨禍により辛酸をなめてきた日本国民は、国家権力を人民が縛ることがいかに自らの死命を文字通り制するかを、骨身にしみて知っていた。もうだまされるか、ということだ。新憲法の基本的人権も平和主義も、アジア諸国に被害をもたらしてきた日本軍国主義の廃棄も戦争の放棄も、当然のこと、新憲法の諸原理こそ譲り渡せぬ命綱と理解した。
そうした前提の上に97条(この憲法が国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪え、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。)や9条があり、それらすべてを引き受けて96条がある。
歴史の中で恣意独断の数々の間違いを重ねてきた政治権力が、軽々に自分の都合で憲法をかえてはならぬ、その重石が96条。憲法によって国民が国家権力を縛る、其の要の重石が96条。もし憲法を変えようとするなら国会で熟議を重ね議員の三分の二以上が賛成するまでの論拠を国民の前に示したうえで、国民の意向を直接問え、というのが憲法の思想である。その意義が理解できてないから、安倍自民党は、まず96条という錠前を壊せばあとは楽だと考えた。そんなコソ泥的発想は世界広しとはいえ、ほかのどの国でも考えられもしない迷案だ。
安倍首相曰く、たった三分の一の国会議員が反対するだけで国民は投票も出来ないのはおかしい、二分の一の発議に変えて「憲法を皆さんの手に取り戻す」などと、世界の常識に逆らう詭弁を恥ずかしげも無く展開している。憲法は国民が権力者の手を縛るもの、その改変手続きが、通常の法律を超えて厳しいのが世界の常識。
アメリカは改憲発議が両議院の三分の二に加え四分の三の州議会の同意が必要(アメリカ合衆国憲法第五条)。
スペインは全面改正の場合三分の二発議で上下両院解散、総選挙後の議会で再度三分の二の議決後に国民投票。
部分改正でも議会の各院の5分の3以上の多数で改正案を可決。後15日以内にいずれかの院の議員の10分の1以上の要求がある場合には、更に国民投票での採択が必要(「1978年憲法」第10章憲法改正)。
フランスでは、憲法改正は上下両院の過半数の賛成で発議されるが、次に両院合同会議で5分の3以上の賛成または国民投票で過半数の賛成で改正案が成立する。
フランス憲法には1789年8月26日の『人および市民の権利の宣言』が含まれている。政府の共和制体は憲法改正の対象とすることはできない(「フランス1958年憲法」第89条)。
ドイツは、東西ドイツ統一がらみで憲法を持たないが、「基本法」があり実質的に憲法の役割を果たしている。それによると、連邦議会議員の3分の2で可決後、連邦参議院の3分の2の同意で改正とされている。しかし、「人間の尊厳は不可侵である。これを尊重し、かつ、保護することは、すべての国家権力の義務である。」に始まる第1条から第20条にいたる基本権の「基本原則に抵触することは、許されない」。
つまり、基本法の冒頭にある自由・平等・信仰と良心の自由・等々の人権には手をつけることができない。
基本的人権はドイツにおいて、まさに、『現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの(日本国憲法第97条)』として、現在の国民が次代の国民に引き継ぐ責任を負っていることを示す。(「ボン基本法」第79条)。
スウェーデンでは、国会(一院制)が改正案を2回議決。この間に国会の総選挙が行われなければならない。さらに国会議員の3分の1が改正案を国民投票にかけると提案した場合、国民投票が行われる(14~16条)。[憲法を変えにくくするための3分の1規定。安倍氏の発想とは逆の意味の3分の1規定]
フィンランドでは、一院制の議会で過半数の賛成により改正案を発議した後、解散と選挙があり、再審議では今度は3分の2以上の賛成によって改正が成立する。
デンマークでは、国会(一院制)が改正案を発議し、国会の総選挙が行われ、総選挙後の国会で改正案を無修正で再議決出来たならば国民投票を実施。投票数の過半数の賛成かつ全有権者の40%以上の賛成で承認される(憲法88条)。
日本の規定が甘く見えてくるほどだ。
[諸外国の改憲規定は日本国憲法以上に厳しい]
96条改定を言いつのる安倍首相も自民党もこうした各国の制度をどこまで知っているのか。知らないで言っているのなら、不勉強者の無知の無責任極まりない放言である。知っていて「憲法を皆さんの手に」などと言っているのなら、民を欺くペテン師、ウソで民衆を煽る煽動政治家ということだ。どちらにせよその程度の知見と品性の持ち主が宰相とは、憲法をもてあそぶとは、情けないことだし危険極まりない。
Ⅱ 個人か、人か……憲法を支える原理
アベノミクスがもてはやされて半年、雲行きがちょっと怪しくなってきた。しかし、国内ではどこからもたたかれず[只管安倍応援団と化した大半のマスコミの惨憺たる現状]、
安倍首相は今のところ内外でのびのびとはしゃいでいる。各紙各放送局の世論調査で安倍内閣の支持率は60%を超え、参議院選挙の投票は『経済・景気』を選択の基準にするという人の割合が群を抜いている。
安倍自民党が選挙公約として掲げている憲法改竄の計画は、投票行動の決定要因には全くなっていない。(憲法問題に絞ったアンケートでは、9条や96条、天皇元首化の「改憲」には、反対する人が賛成よりはるかに多い。だが憲法問題は、人々が経済問題で投票を決めるわけだから、選挙には反映しない)。このまま事態に変化がなければ、安倍自民党は「経済」によって参議院の議席の3分の2を制し(?)、その3分の2を使って、やすやすと、憲法改竄に乗り出すことができるようになるだろう(?)。ただし、有権者が賢ければ、当然この展開を予測するだろう。予測したうえで、投票の選択基準を改憲是か非かに切り替える。自民の3分の2は阻止される(?)。「賢い判断」となぜ言うか、目先の景気より憲法が、この先50年100年の日本と日本人の生き方、品位ある生き方に深く係わっているからである。
比べてみればわかる。現行の日本国憲法と安倍自民党の「憲法改正案」が前提にしている人間像の差は何か。一言にしていえば自立した個人と隷従者の間にある、品位の差だ。憲法CONSTITUTIONとはなにか。一緒に国家を組み立てることだ。ダレガ組み立てるかと言えば自由で独立した平等な個人の集団としての国民だ。彼らが国家を組み上げる。
第13条『すべて国民は個人として尊重される。生命、自由、及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉(注:権利と権利の相互調整)に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする』。この13条にいう「個人として尊重される」独立した個人、歴史・文化・伝統・因習・風俗・地域・国家・家族等々のすべてから自立した個人こそが、国民として国家を組み立て、主権者として国政を信託し(前文)、基本的人権を不可侵の永久の権利として信託を受ける(11条、97条)。
憲法が前文で『日本国民は……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。』とまず言い切り、続いて『そもそも国政は国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原則に基づくものである。
われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する』と宣言する。100%独立自尊の平等で自由な存在としての個人を出発点にしている。人類が歴史の中で作り上げてきた原理である。明治の福沢諭吉も『学問のすすめ』のなかで「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず、と言えり」と紹介している。
これに対して自民党草案はそういう原理を嫌い、そういう個人を嫌う。「日本国民は」を主語にした現憲法の前文はお払い箱、代わりに「日本国」が自民党憲法前文の主語になる。「日本国は……天皇を戴く国家であって、」が最初の一文である。日本国民はどうなるのか?「日本国民は国と郷土を守り、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する」。そして「良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、憲法を制定する」、という。つまり主人公は国家であって、個人ではない。必然的に現憲法の根幹をなす13条の「個人」(すべて国民は個人として尊重される)は「人」に置き換えられ、基本的人権は不可侵性を否定されて、「公益及び公の秩序」に服することになる。
[一人一人が集まって政府、国家を作るのであって、逆ではない。この当たり前の原理を自民党改憲案は無視]
基本的人権を侵すことのできない永久の権利として国民に信託した97条も、何の説明も無く抹消されている。
憲法は権力の手を縛る、その表現でもある「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護すべき義務を負う」とした99条からは、「天皇と摂政」は除かれ(つまり擁護の義務を負わないとされ)、なんと国民が尊重義務を負うべきものとなっている(つまり縛り手が縛られている!)。天皇は憲法を超える存在にしようとでもいうのか。
繰り返すが、近代憲法の原理は、国民が権力の手を縛るものだ。しかし、安倍自民党は改憲案づくりにあたって、「人権規定も、我が国の歴史、文化、伝統を踏まえたものであることも必要だと考えます。現行憲法の規定の中には、西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるものが散見されることから、こうした規定は改める必要があると考えました。」と解説している。
[日本の歴史、文化、伝統のどこを言うのか?奈良時代?平安時代?江戸時代?歴史は我々一人が今、作りつつある]
現行憲法の97条はまさしく天賦人権説のエッセンスである。『人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果』『侵すことのできない永久の権利』、これは日本的歴史・文化・伝統などを口実にして捻じ曲げることはできない原理、国家を形成する独立自尊の個人・国民の条件。妥協の余地はない。
戦後の日本国民を支えた新憲法を、「押しつけられた憲法」などと非難する安倍首相らの姿勢は、国民一般とはかけ離れた、自虐的な戦後史観に捉われているとしか言いようがない。そういう自虐史観を持った者が、「日本を取り戻す」というとき、その「日本」は主権在民の国ではなく、天皇制の明治憲法体制だろう。そう考えると、安倍自民党の改憲案はよく分かる。天皇は元首になり、国民は天皇を頭の上に押し戴く。人権は『現在および将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたもの』としての不可侵性、絶対性はなくなる。97条は削除である。
基本的人権の意義を知っている国民が、そんな国家に戻りたいと思うなどと、本気で自民党は考えているのだろうか。歴史を無視し非論理かつ荒唐無稽。全く現実性がない。
終りにまともな文章で頭を整除しておこう。
日本国憲法をお読みになりますと、前文に「そもそも国政は国民の厳粛な信託による」とあるのにお気づきと思いますが、その言葉を使ったのは(ジョン)ロックであります。
信託は、委任を受けて財産を預かる人間と、預ける人間との関係であります。ところがこの預かる人間は、この財産を運用するのでありますけれども、これは自分自身の利益のためにやるわけではない。どこまでも預けた人間の利益のために運用するのが信託をうけた人間の義務であります。まさにその比喩を使って、権力というものを説明する。国政を国民から権力への信託だというのでありますから権力が国民に違反したときには、いつでも信託を撤回する、取り返すことができることになりまして、人民の側に革命権を確認するわけであります。
ところで、すぐにお気づきのことと思いますが、こういう論理は、実は政府と人民、権力と自由とは対立するものだという前提にたっております。だからこそ、本人と代理人とか、信託とかいう比喩を持ち出して権力を制限する、権力に手枷足枷をはめるのであります。(『近代の政治思想』福田歓一)
だから憲法があるのです。
Ⅲ 権利のための闘争 権利の上に眠るものは権利を主張するを得ず。
紙の上に書かれた新憲法を、日々の生活の中で、市井に生きる普通の市民が血の通ったものにしていく。それが戦後20年、30年の日本人の歩みだ。ここが分かっていないから安倍自民党のような『改憲草案』が出てくる。筆者は昭和の40年代に司法記者クラブや環境庁記者クラブにいて取材した経験を持つ。当時の実感は新しい憲法の下で暮らしている人たちが、憲法を自分の道具として権利のための闘いに次々と立ち上がる時代だということであった。
たとえば、老人年金の夫婦減額制に対する北海道の一老人の異議申し立て。牧野老人はじぶんの妻が老齢年金を貰うようになったとき、妻の受け取る額が正規の金額より少ないことに疑問を抱いた。当局の説明は夫婦そろって年金を受けるときには、配偶者は減額されることに制度が決まっている、という。しかし、牧野老人は納得せず街の古本屋で六法全書を買い、憲法を読み進み、第14条法の下の平等に行き当たったのである。「すべて国民は法の下に平等であって、……性別により、政治的経済的関係において差別されない」。彼は東京の裁判所あてに不合理を訴える手紙を書いた。たまたま手紙の配分を受けた裁判官が、手紙に感動して知人の弁護士に託した。弁護士は牧野老人を支援して訴訟を起こし、最終的には制度は是正された。
生活保護と憲法25条の意義を問いかけた結核療養所の患者の朝日訴訟。各地の公害訴訟では零細な被害者たちが逃げ場のない闘いを挑み、知人の公害被害者にとって、憲法と六法は人権を賭けた闘いに手放せない道具だった。
[今では想像もできない血の通った裁判官の存在と一個人が政府に勝訴する時代が戦後一時期あった]
もうひとつ言えば、新憲法は紙の上に書かれた憲法でなく、戦争の犠牲者の血で書かれた憲法でもあった。昭和10年生まれの共通体験は、戦時中の疎開と飢餓。国民学校では奉安殿の前で軍歌を歌い、鬼畜米英とは竹槍で闘う覚悟をし、家族か親戚に戦死者・戦傷者がいる。内地でも空襲の死者・負傷者・浮浪児が増えていく。六三制の二期生で、“新制中学”では『新しい憲法の話』で戦争放棄・平和主義・人民主権・基本的人権に初めて触れて蒙を啓かれた。戦争の死者が日本人だけで三百万人、これを犬死でなくするのは、二度とバカな戦争をしない、平和をつくること、それが死者に報いること。それが世代の共通感覚になった。
[自民党長期政権と旧体質が温存された官僚機構が戦前回帰の試みを強め、教科書を徐々に変え、学校で憲法を教えることを止め、国民の危機意識を煽らないよう憲法を少しずつ換骨奪胎する。その帰結が自民党の改憲法案と言える]
安倍首相の年代や暮らし方には二つの体験とも欠けている。この悲惨あればこそ、紙の上の憲法は、実は、血で書かれた憲法であり、紙の上の言葉を老人も若者も教師も学生も自分たちの実践で実質化し、生かしていったのである。
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注)大治浩之輔氏については、Daily NOBORDERに12月23日付で掲載された筆者の「小沢一郎事件~今様政治家暗殺事件~」を参照。
【DNBオリジナル】
photo by つ
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