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安倍総理に「自由と民主主義と人権の価値」と言う資格があるのか?(大貫 康雄)

イギリス北アイルランドでのG8サミット(主要国首脳会議)で、安倍総理はオバマ大統領との個別会談を目指したが実現しなかった。優先度の違いが明らかだからだ。が、日本のマスコミは内実を報じない。

一方でオバマ大統領はG8後日程を割きドイツ・ベルリンを家族連れで訪問した。あらためてメルケル首相と会談する。ベルリンはヨーロッパ分断の冷戦時代を象徴する都市で、50年前の6月26日、J・F・ケネディ(Kennedy)米大統領が有名な演説をした歴史を意識し、ブランデンブルク門の前で核兵器大幅削減をはじめ包括的な分野に関して演説した。

この時ケネディは「自由の価値の維持には幾多の困難が伴い、民主主義は完ぺきではない(実際、充実度は国によって様々)。しかし我々は(ベルリンの)壁を作って人々を閉じ込め、人々が去るのを妨害することはしない(Freedom has many difficulties, and democracy is not perfect. But we have never had to put a wall up to keep our people in, to prevent them from leaving us)」と演説する。一般には「私も(自由な)ベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」という一言が知られている(カッコ内は筆者による)。

「自由と民主主義と基本的人権」はアメリカの政治家が機会あるごとに口にする。

安倍氏は盛んに「自由と民主主義と人権の普遍的な価値観を共有する」などと言い、それを日本のマスコミは何の検証もせず垂れ流し、報道を続けている。G8サミット前の東ヨーロッパ訪問でも盛んに「自由と民主主義と人権」を共有、などと繰り返した。実際は内外で強い批判を浴びている“原発輸出をはじめ企業のセールスマン外交”をしている。

(1)彼は自由と民主主義の価値を本当に理解し確信しているのか また彼が言うように日本は本当に自他ともに認められる程に「自由と民主主義と人権」の理念を具体化しているのか

彼が進める政策を、何よりも自民党の改憲草案を見るだけでも、彼の言葉が実態を伴っていないのが判るのではないか

本当に「自由と民主主義と人権」の普遍的な価値観を有し、実行しているならば先月ジュネーヴで開かれた「国連拷問禁止委員会」の場で、モーリシャスの委員から“日本の司法制度は中世のようだ”、などと批判されるお粗末な司法制度は存在してないだろう。

上田秀明人権・人道担当大使の“日本は世界で最も進んだ……”という実態を反映してない反論も笑われなかっただろう。上田大使自身がこれら普遍的な価値観をきちんと理解していれば“Shut Up! 黙れ!”という暴言もせずに、世界の笑いものにされることもなかっただろう。

総理大臣ならば、即刻、上田大使を召還、池田振一郎氏など人権に理解のある弁護士を新しく任命して、司法制度改革を約束するべきだろう。

(2)日本では検察庁の一連の醜聞が続き、検察の証拠隠滅や政治的で意図的な捜査、でっち上げ捜査が問題とされたのに、被害者への真摯な謝罪も無いし、取り調べ可視化も、弁護士の立ち合いも実現していない

それどころか、今は逆に警察・検察側が一方的に勝手に取り調べる現在の悪しき制度を維持しようという法務(検察)官僚たちの根強い動きが起きている。

警察や検察は“法の下の平等”の理念の下、正当と認められる理由がある場合に限って、一時的に人々を拘束し取り調べを行う権限を与えられている。その権限の行使には拘束される個人の人権を必要以上に制限しない最大限の配慮と注意が必要とされるが、日本の警察・検察が本当に人々の人権に配慮しているのか取り調べ現場で疑わしい例が幾つも起きている。

検察の勝手な調書作成密室での長時間拘束、今回の国連拷問委員会でも総括された、いわゆる“代用監獄”別件逮捕による長期拘束、警察官が狙う人の脇でわざと転んで被害者のごとく振る舞い、逮捕する“転び公妨”などのような悪質な行為も長年許されてきた。

裁判官は逮捕や家宅捜索令状を請求されるたび安易に出す自動販売機のようだし、裁判官が取り調べ側の主張を鵜呑みにするような判決が幾つも見られる。

安倍氏が「自由と民主主義と人権」を言うならば、まず諸外国から批判を浴びている司法改革、検察庁の体質改善を実施すべきだろう。

司法制度改革は今も未解決の大問題のはずだが、いつの間にかマスコミはきちんと報じなくなった。

(3)イギリスの学校制度が優れていると単純化は出来ないが、ロンドン駐在の2003年当時、ひとつの思い出がある。

日本人学校に通う小学校3年の男の子が、“日本とイギリスの学校の違いを知っているか”と聞く。彼は“イギリスでは子どもがお客さんだ。朝学校に行くと先生が教室の入り口で待っていて「おはよう。今日も元気で来てくれたね」と笑顔で声をかけている。日本の学校では逆で子ども皆が先に教室で待っている。先生が入ってくると全員起立して挨拶するんだよ”。この一事でこの子が通う学校の雰囲気がわかる。

学校・教育現場でのいじめや暴力事件は世界各国でも問題だが、日本での事件頻発には、上意下達の意識の蔓延、暴力を人権侵害と思わない教師や指導者たちの横行が背景として考えられる。民主主義と人権、何人も平等、との教育が徹底していれば相当程度、防げたはずだと考える。

(4)日本国憲法を見てみよう。現憲法では自由・民主主義、人権などの基本的で普遍的な価値を具体的に実践しようと相当細かく規定されている。

しかし、戦後大半の時期政権を握っていた自民党は戦前同様の中央官僚集権体制を温存、この民主的憲法を具体的に実践するのとは逆に当初から換骨奪胎を試みてきた。

例えば教育委員の公選制廃止、政府から高い独立性を持つ電波監理委員会を廃止しNHKはじめ放送機関への政府の規制強化制度に改悪、名ばかりの選挙管理委員会、独立性の低い公正取引委員会制度、地方自治とは逆に中央集権体制を強化など多々ある。

そして今、自民党の改憲案を読むとわかるが、自民党は現憲法に謳われる人々の人権・基本権と、自由を制限し、具体的な意味が不明の「公の秩序」なる概念を打ち出し、国民に守る責務を課そうとしている。

最近、批判が出ている家族の助け合いの義務化もしかり、国民一人一人が健康で文化的な生活を送る権利の軽視もしかり。自由よりは強制の方向を向いている。

これは安倍総理のいう「自由と民主主義と人権」の普遍的な価値の実践ではない。逆に普遍的な価値の否定する方向に向いていることは明白だ。

安倍氏には「自由と民主主義と人権」を共有と言う資格はない。自民党は名前と実態が伴わないのであれば、党名を変更するべきだ。

繰り返しになるが、「自由と民主主義と人権」を言うならば将来世代のために、憲法改悪ではなく教育現場での旧弊から全面的に改革すべきだろう。

日本人ならば相当数の人が覚えていると思うが、学校では子どもたちに一人ひとりの権利意識を強化する教育を怠り、物事を自由に考え、疑問や質問を抱く教育を怠ってきた。逆に義務意識を植え付け、先生が教えることを子どもたちは素直に信じ、覚えさせられる教育を進めてきた。

これでは変化の激しい現代世界で、自分で物事を考え、自由に発言して行く日本人が豊富に育成されることなど期待できない。

歴史教科書では、帝国主義国家であった戦前日本の都合の悪い事実を教えることなく朝鮮半島を植民地化した事実、中国を始めアジア諸国を軍事侵略多くの犠牲者を出し、果てはアメリカなど連合国との戦争に突入。国民生活を徹底的に破壊した指導者層の責任も教えられることはなかった。

現憲法は戦後日本社会の基盤であるだけでなく、人類の民主主義と人権思想の進展の主流をなす憲法である。しかし学校で教えられることはほとんどなく、逆に自民党長期政権で少しずつ解釈改憲が続けられ、それに順応させられ当たり前のことと思い込まされてきた。

今こそ戦後の歴史と自らを振り返り、現憲法が成立した歴史的背景を知り、現憲法そのものの価値を再評価するべきだろう。

 

[caption id="attachment_9583" align="alignnone" width="649"] 演説する安倍晋三総理大臣[/caption]

photo by 多摩に暇人

source from http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Shinzo_Abe.jpg?uselang=ja

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