【中東ジャーナル】(第五回)自由と平和~日本と中東の「風景」(上杉隆/文・写真)
シリアでの内戦が激化している。それは周辺諸国にも波及し、レバノンやトルコなどの治安も不安定になってきている。
フランスが主張していたシリア政府軍による「化学兵器」の使用も、ついに米国が追認したことで、より緊張が高まっている。
一方で、イランはシリア政府軍に対して4000人規模の兵士派遣を決め、レバノンを拠点とするシーア派イスラム主義組織ヒズボラもさらにシリアへの連携を強める方針を打ち出している。
そんな中、私は当地を訪れたのだが、事態が好転するような材料はほとんど見つけることができなかった。
「ここベイルートでもいつ内戦が始まってもおかしくない。でも、その時はその時、いまを充実して生きるしかないでしょ」(重信メイ)
実際、北部の都市、トリポリ、ヘルメル、バールベックなどでは連日、激しい戦闘が続いていた。ベイルートでも散発的に銃撃戦があった。
ところが、彼らは限られた自由を謳歌するように、酒を飲み(シーア派は禁酒)、歌を歌い、ダンスを踊りながら、街に、海にやってくる。たとえ、数百メートル先で銃撃戦がはじまろうと…。
つねに「死」が傍にあるからこそ、「生」への執着とそれ自体の輝きが増すのだろうか。
そうした「風景」(高井英樹氏の言う)は、とてつもなく羨ましいものに思えた。そこには確かに「平和」はないが、一方で確かな「自由」があるのだ。
翻って日本――。
稀にみる「平和」な国家として繁栄を謳歌しているが、私には本当の「自由」があるようにはどうしても思えない。一方で「平和」のない中東の国々には「自由」が存在している。なんと、もったいないことか。
海外に行き、帰国すると付着してくる違和感は、案外こんなところに理由があるのかもしれない。
(終)