日隅さんの命日によせて。(おしどりマコ)
6月12日は日隅一雄氏の命日です。
1年前、日隅さんとはしばらく会えなくなってしまったけど、
今日は、日隅さんの命の日なので!
情報流通促進計画! とよくおっしゃってた日隅さんの好きな色、オレンジ色の服を着て、
私とケンパルは東京電力の会見に行きました。
その他、情報開示請求を出し、
電話取材をし、
明日の取材申し込みをし、
今日、福島第一原発に入った海外メディアの方に、
明日の福島での取材をコーディネートしました。
今、ケンパルは会見の質疑の書き起こしを3本連続でやっています。
ご自分が、文字どおり、死にそうに辛くても! 情報流通促進のために動いてらした日隅さんに、
次にお会いしたとき、できるだけ恥ずかしくないようにしたいです。
本音言うと、
日隅さんにお電話したいときがまだまだありますけどね!
空に向かって、
「日隅さーん!!」と泣いたら、ケンパルが
「僕が横におるよーう!!」と泣き出したり。(ごめん、ケンパル、頼りにしなくて。)
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日隅さんは、
「僕とマコさんは兼業だから同じだね、
兼業だから、たぶん、専業の方にはできないこともできると思うよ、
だから続けて一緒にがんばろう!」
とよく励ましてくださいましたね。
それは、生活が直接かかっていないぶん、
生活を人質にとられていないぶん、
思い切ったことができる、という意味でした。
そして、フリーランスの方でも、専業であれば、
お一人でいろんなジャンルをやらねばならないので、
世間の方が原発事故をあまり注目しなくなれば、
取材をしたくても離れざるをえない、一人で視聴率競争しているようなものだから、
という意味でもありました。
実際、今、東京電力の会見に取材に来られているフリーランスの方は激減しました。
「僕とマコさんは兼業だから、
調べたいことを思い切り調べることができるんだよ、
これは凄いことだから、続けてよね!」
芸人が会見に来て取材をする、ということで叩かれてばかりだった私を、
ずっと励まし続けてくださった日隅さん。
日隅さん、今、私は、もっといろいろな方が会見に入ったり、取材をしたり、
情報を発信するべきではないかと考えています。
私が取材を重ねて感じたこと。
「真実」というのは、誰にも分からないことです。きっと神様にしか分からない。
私たちが知ることができるのは、いろいろな方が見た「事実」だけ。
当事者の方でさえ、当事者から見た「事実」しか分からないのだから。
なので私たちができることは、いろいろな角度からの「事実」を集め、
実際の「真実」に近づけるよう、構築できる情報をできるだけ集めていくことではないか、
と思ったときに、気付いたのです。
記者会見で、質疑応答のときの違和感です。
会見での質問は、記者さんがたの質問しかありません。
記者目線の質問、記者さんの角度の「事実」しか集められないのかもしれません。
もっといろいろな角度の質問があれば、
いろいろな角度の「事実」が出てくるのではないかしら?
会見にいらっしゃるのがワンタイプの記者さんだけなので、同じような質問になるのではないかしら?
2011年に、飯舘村の方々の会見を自由報道協会で開催しました。
そのとき私は
「発信する方なら、誰でも参加OK! 夏休みの壁新聞でも、職場の回覧板でも、 井戸端会議でもブログでも!」
という記者会見にしました。
すると、小学生からNHKの解説委員まで、幅広い質問が出ました。
ツィッターで、海外からや、東京大学の先生からも質問があり、それも受け付けました。
2時間くらいの会見でしたが、非常に内容の濃いものになり、
会見側の飯舘の方々も、「みなさんが何を知りたいのか、何が伝わってないのか分かった!」とのことでした。
ここまでするのは難しいかもしれないですけど、日隅さん、
私は情報流通促進のために、いろいろな方が会見に入るのは必要なことだと思うようになっています。
そうすれば、もっといろいろな角度からの「事実」が出てくるのではないでしょうか。
会見に行ったり、取材をしたり、発信をしたりする「兼業」の方が、
もっともっと増えますように!!
いやー私、「漁業と記者を兼業してます!」「農業と記者の兼業です!」
「教師と記者の兼業」「大学生と記者の兼業」「土木技師と記者の兼業」などなど
いろんな方が東京電力の記者会見にいらっしゃればいいのに!! と心底思いますもん!
いろいろな角度からの「事実」を私たちが得ることのできるよう、
いろいろな方が取材をしたり、会見に入ったりすることができますように。
そのためには私たちが立ち上がることと、
記者クラブさまが開いてくださることが必要なんですけどね☆
まー、とにかく日隅さん、私、もうちょっと続けてみますわ!
(6月12日は、みなオレンジの上着を来て会見に行く、取材をする、という日になればいいのにな!)
おしどりマコ拝
【NBオリジナル】
昨年、日隅一雄さんが亡くなった晩に書いたものの転載です。
WEBマガジン、マガジン9での連載「脱ってみる?」第45回「日隅一雄さんへのとりとめのない手紙の件。」より。
http://www.magazine9.jp/oshidori/120613/
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日隅さん、だーいすき!
というメールをいっつも書いてましたね!
あーあ、もう日隅さんの声を電話で聞けないと思うと、不思議。
今、深夜だけど、電話してみちゃおっかな?
案外、「は~い、マコさん、なぁに?」と言ってくださるんじゃない?
でも、今年になってからはずっと、「今、まだ痛み止めがきいてないから、あと1時間後に電話して!」
などなど、いつお電話しても、痛みがキツイとおっしゃってましたね。
今日、日隅さんが危篤のお知らせを聞いてからは、
「がんばってください!」ではなく
「もうこれ以上ひどく痛みませんように!」とずっとずっと祈っていました。
日隅さんだいすき! でも、もう一度お喋りしたかったなー!!
[caption id="attachment_9335" align="aligncenter" width="420"] 2011年9月5日の「ニュースの深層」にて。[/caption]
日隅さんを初めて拝見したのは、東京電力の記者会見のインターネットのライブ中継でした。
なんか、ちっさいオジサンがいつも吠えてらっゃるなー、
そして、なっかなか質問のときに東京電力から指名されないし、
質問をしたらしたで、他の記者さんから野次られてるなー、と気になっていました。
で、他の記者さんから
「お前たちだけの記者会見じゃないんだ!」
「そんな質問聞きたくないんだよ!」
と野次られていたとき、腹が立って、
「私たちが聞きたいんですよ!」
と怒鳴り返そうと思って、記者会見に行こうと思ったのが、きっかけの1つ。
そのときは、単に日隅さんの応援をしようと思っていて、
自分が質問しようとは、記事を書こうとは全く思いませんでした。
多勢に無勢で、ちっさいオジサンだし、援護射撃しなくちゃね、と思いきや、
日隅さんは、パワーあふれていて、私が手を挙げていてもなかなか当たらなかったら、
「あなたが指名されなかったら援護射撃するので、どんどん質問してください!」
と声をかけてくださいました。それが日隅さんとお話しした最初の会話です。
日隅さん! 東京電力の記者会見場で、私たちを
「芸人だから」と色眼鏡でご覧にならなかった唯一の方でした。
「僕も弁護士だから、兼業は同じだね!」と、おっしゃってくださいましたね!
そして、東京電力の記者会見が去年の4月25日から統合本部の合同記者会見に変わり、
会見に出席する資格を問われるようになったとき、私たちは入れなくなりました。
(この模様は脱ってみる? 第2回「会見マニア→記者クラブについて考えだす!」
http://www.magazine9.jp/oshidori/110601/ にて!
あー、この回に日隅さんのことも書いてあるなー、いいなー、このときはいつでも会えたんだなー)
このとき、日隅さんも、記者会見に入れなくなって、
それは東京電力との裁判で、対立する側の弁護をされてたから、という理由。
利益が対立する側の人間は記者会見には入れない、とかいう理由だったんだけど、
じゃぁ、身内が東京電力の記者とか、東京電力に広告費もらってる媒体はどうなんだよー、と思いますよね!
私たちも、もちろん入れなくなって、素直に受け入れる予定だったんだけど、
日隅さんが記者会見に入れなくなったので、腹が立って、意地でも入ったろうか!
と思って手を尽くしたんです。(その頃の模様も第2回に書いてますからね。)
そのときに、日隅さんにも相談して、ご自分が編集長をしてらっしゃるNPJ
http://www.news-pj.net/ にも書かせて頂きました。
原発特別取材班にしましょう、とおっしゃってくださって。
そして、日隅さんが統合本部の合同会見に入られ、
それからしばらくして私たちにも合同会見に入る許可がおりたとき、
(この許可うんぬん自体、とんでもなくおかしいことですけど!)
去年の5月末の同じ日に、日隅さんの癌のお話を聞きました。
癌かどうか検査するお話を伺い、そして、結果が、もう、末期、と聞き、
すぐに日隅さんのところに駆けつけて、お話を伺って、
帰りしに泣きながら、新宿を泣きながら帰りました。
私たちなんかより、日隅さんが会見に行ってほしいのになぁ!
日隅さんがもうすぐ亡くなるなんて、おかしいよ!
そう言いながら泣きながら帰りました。
入院したての日隅さんは、たくさん、たくさんお話をしてくださいましたね!
「僕は情報開示するよ、全部情報をオープンにするよ!」とカルテも全部見せてくださいました。
「見てー、もう、カルテに余命とか書いてあるんだよ、余命6ヶ月って書いてあるよー、
ビックリだねー。告知とか普通、悩むんじゃないの?」笑って見せてくださった日隅さん。
でも、それは通常の場合の余命で、
「治療法が合わなかった場合は余命2ヶ月」って書いてあって、鳥肌が立ちました。
え? どうして? 日隅さん、今、お元気なのに?
お腹が痛かったり、下痢だったりであまり食べれない、と伺ったのは少し前でした。
でもいきなり、余命宣告の末期癌なの?
それから、毎日病室に伺いました。アホみたいに通いました。
入院初日から、勝負パンツを大量に買い、
お見舞い客の方々にお出しする水菓子を買い、
その頃は毎日合同会見があったので、会見の前に、毎日日隅さんとこに通いました。
あまり通いすぎて、ナースセンターの方々が私を覚えてしまい、身内と勘違いされて、
最終的に、日隅さんがいらっしゃらなくても、病室に入ってましたね!
「日隅さん、売店に行ってるから、部屋で待ってらしたら?」って。
で、病室で片付けしてて、日隅さんが遅いから、隠れておどかしてやれ! って思ったけど、
病人の心臓止めるようなことしちゃダメだな!と思い直したり。
あー、最終的に、時間外の夜の面会でも、オールオッケーになって、会見後の夜もよく伺いましたね!
でも夜の病院が怖くって、日隅さんに送ってもらったり。なんのこっちゃ!
日隅さん、日隅さんは亡くなる間際まで、闘う姿勢をお示しくださって、
本当に、本当に、私の生きる道しるべです。
でも、末期癌を宣告され、入院されてから、
「もう、しばらく、原発のことから離れたい」と、お見舞いの差し入れで頂く原発関連の本を退けられました。
で、がん治療の本をお読みになって。それが本当に切なかった!!
なんで、こんな素晴らしい方が、今、必要な方がとられちゃんだろう!
私たちなんかが会見に行っても仕方がないよ!
毎日そう思ったのだけれど、あまりにいろいろ悔しかったので、
その頃はヤケクソのように、寝ないで勉強して、日隅さんの病室に行って、会見に行っていました。
「NPJのおしどりです」と言いたかったので。
日隅さんの代わりとかじゃなくて、「NPJ」って毎日会見で名乗ってやる! という意地でした。
でも、その頃、日隅さんは少し原発事故のことから離れてらして、
私も病室で全くそのことは話さなくて、いろいろお喋りしてただけだったのに、
ネット上で「おしどりは日隅の手先」「日隅の指示でおしどりが動いている」とか書かれていて、本当に悲しかった!
日隅さんの名前を汚すようで申し訳ないなぁ、全く関係ないのになぁ、と思ったけれど、
お顔の知らない誰かの悪口を気にするより、私は、日隅さんが大好きなので、それだけでいいや、
日隅さんのことだけ考えよ、と気にしないようにしました。
そして、案外、ネットの悪口って全く的外れなんだな、
何も知らないのに勝手に中傷するんだな、ともよく分かりました。
日隅さんと病室で過ごした時間は、私にとって、甘いひとときでした!
ケンパルも家において、日隅さんと二人っきりの時間、いろんなお話を伺いましたね!
日隅さんがどうして新聞記者を辞めたか、日隅さんの大阪時代のお話、弁護士になったきっかけ、
日隅さんの奥さまのお話、日隅さんがベッドを捨てたお話、日隅さんが考えるお笑い論、
海外の、特にヨーロッパのメディアや制度についてなどなど!
いつも、「時間が足りないねー、もっといろいろ教えてあげたいのにねー」と言われるたび、
ギャグで返してましたけど、涙をこらえてたんですぜ!
たくさんの方々が日隅さんのお見舞いに来られ、いろんな方とお話をするたび、考えました。
日隅さんとどう接したら、日隅さんにとって、一番いいんだろう?
そのとき出した答えは
「日隅さんが明日亡くなると思って、今できる限りのことを動いて、
日隅さんが永遠に生きると思って、毎日たくさんのことを教えて頂こう!」でした。
なので、日隅さんには、いつも甘えて、いろいろ教わりました!
えぇ、まぁ、日隅さんを全く病人扱いしてませんでしたよ! スパルタ生徒さ!
けど、日隅さんが、唯一私にお見せになった弱み、それは去年の5月に末期癌を宣告されて、
日隅さんの弟さんが来られたとき。
その晩、弟さんご夫婦が泊まられて、いろいろお話になり、帰られてから、日隅さんは
「やっぱり、血縁の身内に会うと弱るね、自分が死ぬと実感するね、残して死んじゃうんだな、と思い知らされる。」
とおっしゃってました。
でもね、それから、日隅さんは再び、原発事故や社会の問題に立ち向かわれました。
本当に驚きました!
初めは目を背けておられた、お見舞いで頂いた原発関連の本を、手に取られ、
記者会見をインターネットでチェックされるようになり!
「また会見に行かなくちゃ!」とおっしゃったときは頼もしかった!
今まで、体を酷使されてたぶん、体を労わったら、お元気になるんじゃないかしら!?
奇跡よ起これ! と祈っていました。
[caption id="attachment_9337" align="aligncenter" width="420"] 2011年12月16日、統合会見の最終日。お隣に日隅さん。[/caption]
いったん、顔色も良くなった時期もあったけど、
去年の秋は、もう、会見場で、机につっぷしておられるくらい、お疲れでしたね。
で、年を越し、「余命を超えたよ!」と笑っておられたけど、
いつお電話しても「痛みがひどくて、痛みどめがきく2時間後に電話して」や
「痛みがヒドイから電話できないけど、メールなら読めるからメールして。」ばかりでした。
でも、いつもいつも、ちゃんとお話しをきいてくださって、答えをくださいました。
あらーん私、日隅さんがいらっしゃらなくて、大丈夫かしら? まだまだ日隅さんは心の拠り所ですよ?
先月の5月17日は、福島県庁で記者会見を開いてらっしゃいましたね!
[caption id="attachment_9341" align="aligncenter" width="620"] 2012年5月17日福島県庁記者クラブにて。会見者として話す日隅一雄さん。[/caption]
牛の殺処分に反対して飼育を続けている浪江町の希望の牧場が、
「作業内容をインターネットで無断公開しない」という同意書にサインしないと牧場がある警戒区域内に入れない、
という原子力現地対策本部からの圧力を不当だ、と訴える会見。
しかし、会見後の23日には、この同意書が撤回され、日隅さん、すごいな! と感服しましたよ!
福島県庁には待ち合わせをして行って、要望書の提出などなどもご一緒しましたが、日隅さんのお顔が真ん丸で、
「浮腫みが全く取れないんだよー、昨晩も血尿が出て、今日福島に来れるか心配だったよ」とおっしゃっていて、
もう、本当に本当に無理をなさらないで、でも本当に本当にありがとうございます! と心の中で思いました。
けど、ご自分のお体のことをお話されるより、いつも、虐げられているどなたかのことをずっと心配してらして、
「ひどいよねー、なんとかしないとねー」と何かしらおっしゃっておられて。
[caption id="attachment_9339" align="alignnone" width="620"] 2012年5月17日、福島県庁にて。県職員に要望書を手渡す日隅さん。ちなみにこの場を撮ったのは地元TV局1社とおしどりのみ。[/caption]
日隅さん、スゴイ人ですよ! 生きざまを見せつけられちゃいましたよ!
原発事故の取材をして仕事が激減した私たちに
「僕がもう少しバリバリやってたときだったら、あちこち仕事を紹介してあげられるのにー」
と私たちの心配までしてくださって!
でも、今日、逝かれるとはね! 私たちの仕事は、親の死に目にもあえない、とは言いますけど、
今まで、ずっと東京にいたのに、よりによって、北海道にいるときに?
もーう他のときならもっと駆けつけることができるのに!
今日は、ずっと日隅さんの病状を電話連絡で聞きながら、一目会いたいけど、
お話ししたいけど、でも、もう、これ以上の痛みは、辛さは勘弁してください、神様! とお祈りしてました。
日隅さんが劇的に治るほうをお祈りしてたけど!
でもお聞きする病状は、本当にハンパなかったんだよね。
今、この世界で、日隅さんにお会いできないことは、あの声を聞けないことは、
あの猫のようなクシャっとした笑顔を見れないことは、しみじみ悲しい。
頼りになる日隅さんがいないことは心細い。
でも、私は、日隅さんともう一度会えると思っています。
それほど、日隅さんが大好き。
日隅さんと、また合流したとき、いろいろご報告できるように、しっかりやんなくちゃね!
いや、なんか今までよりお見通しの気がする…
日隅さんの「じゃ、またね!」から今回は間があいちゃうけど、でも、また絶対会いますからね!
日隅さん、去年の5月に病室でした約束を思い出してね!