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中立国オーストリアに学ぶ「改憲」の知恵(大貫 康雄)

以前、中欧のオーストリアは国民投票によって、完成した原子力発電所を運転直前に廃止したことをお伝えした。

そのオーストリアがEU加盟に伴い憲法を変更した時、国是である「中立」を変えずに「連帯」の概念を付け加える、いわゆる「加憲」だったことをヴェルナー・ファスラベント(Werner Fasslabend)元国防大臣が来日して行なった講演で明らかにした。

EU加盟だけではなく、第二次大戦後のオーストリアは安全保障のため一貫して国際協力を深めてきた。冷戦後は周囲に対立する国がなくなって中立の意義が薄れたこともあり、いくつもの国際協力に積極的に参加し、その度に中立憲法に少しずつ修正を加えてきたといえる。

国是の「中立」を変えず、近隣諸国に疑念を与えることなく憲法を修正してきたオーストリア。こうした政策はいかにして可能となったのか、簡単に振り返ってみよう。

オーストリアはヒトラーの故郷の国でもあり、ナチス・ドイツに併合され、戦後4大国(アメリカ、イギリス、フランス、ソ連)に占領された。

1955年、独立回復直後に永世中立を謳い、憲法第9条で国際法との整合性が規定された(ちなみにオーストリアの永世中立宣言を最初に承認した国が日本である)。

この中立憲法に修正を加える契機となったのが95年のEU加盟だった。西ヨーロッパ諸国は欧州石炭鉄鋼共同体から関税を廃止した統一市場、EEC(欧州経済共同体)、そしてEC(欧州共同体)を経て、政治・外交面での統合を進めていた。そのためEUへの加盟(95年1月1日)で、中立ではいられないことが想定されたのだ。

オーストリア憲法の改正には、連邦議会議員の3分の2以上の賛成、国民投票での3分の2以上の支持が必要だ。そこで時オーストリアは「中立」はそのままにして「連帯」の理念を加筆したという。国是は変えないで、時代環境に合わせた変更をおこなった。

そして憲法修正の是非を問う国民投票が1994年6月12日行われ、66.58%が賛成している。

オーストリアはこれより前からEUが推進するCFSP(共通外交安全保障政策/Common Foreign and Security Policy of the European Union)への関係度合いを強めており、中立政策との齟齬が議論されていた。

冷戦後、一般市民に多くの犠牲者を出した旧ユーゴスラビア紛争など、ヨーロッパ諸国との政治外交協力の弱点が明らかになり、93年以降、EUとしての外交・安全保障の強化策が進められるようになった。

また国際協力が単に協議の場を提供するだけでなく、紛争地の平和維持、平和創出に積極的に寄与する部隊の派遣などが各国で検討される時代であった。

オーストリアはNATOの非加盟国でありながら「平和のためのパートナーシップ」を結んでいた。「中立」色が薄れることになる。

2001年1月には永世中立国から非永世中立国へと方針転換を閣議決定。今でも国内で議論が続いている。

しかしこうしたオーストリアの「脱中立」の動きを疑惑の目で見る国はチェコやスロヴァキアも含めて皆無だ。誰もオーストリアが大国と組み地域の平和を乱すとは思っていない

中立憲法を修正しても好戦的な憲法にする訳ではない。逆に紛争地に平和を回復するために積極的に外交、各国と共通の社会・経済政策を追求するのが目的であるのが明白であり、近隣諸国から信頼を得ているのはこれまでの実績、現在の姿勢が理解されているからだ。

冷戦時代のオーストリアは共産圏諸国と東側で隣り合い、東西対立の真ん中にあった。中立を宣言しても他の国の都合で侵略される恐れがあった。

この難しい状況で選択した安全保障政策は一にも二にも国際協力だった。国の連諸機関を率先して誘致し(建物建設経費を負担、家賃はなきに等しい)、ウィーンの東側を流れるドナウ川の中州に「国連都市」を建設。ウィーンは世界各国の多くの外交官たちが住む都市になった。国連だけでなくヨーロッパの国際協力機関もウィーンに誘致した。

ヨーロッパは厳しく対立した冷戦時代から、東西ヨーロッパ諸国が一堂に会し安全保障を協議したヘルシンキ宣言(75年)を経て、95年にOSCE(全欧州安全保障協力機構/Organization for Security and Co-operation in Europe)が創設された。

平和と安全保障には経済、環境、人権、民主化などの分野の問題も脅威となるとして問題解決に幅広い活動を展開している。OSCEは今やアメリカ、カナダからキルギス、モンゴルまで北米、欧州、中欧アジアまでの57カ国が加盟する世界最大の地域安全保障機構となっている(非民主的な国に民主的な選挙を促進する選挙監視団の派遣は良く行われる具体的な動きだ)。このOSCEの本部もウィーンにある。

こうした実績を見てもオーストリアが活発、かつ相当に智恵を絞った外交を展開してきたことがわかる。

ファスラベント氏は中道右派・国民党の政治家で、1990年から2000年までオーストリアで最も長く防衛大臣を務めた。豊富な経験を持ち、多角的な視点からの講演で、国防大臣というよりは外務大臣経験者のように感じられた。

講演の後の質疑応答で、日本側出席者からは中国の軍事的脅威が盛んに語られたが、ファスラベント氏は、軍事も大事だが外交がそれ以上に大事であることを強調していた。特に中東の小国カタールを挙げ、カタールが優秀な外交官を数多く育成し外交大国になっていると語っていたのが印象に残った。

また講演後、氏と話したところ、日本人参加者に中国恐怖論が強いのに少し驚いたようで、“恐怖心が強いと良い知恵が出ない”、“頻繁に率直な対話ができる環境整備外交が必要だ”などと言っていたのを付記しておく。

オーストリアはウィーン国立歌劇場、ウィーン・フィルハーモニー、楽友協会ホールでの新年コンサート、世界有数の美術館など文化的資産に事欠かない。アルプスもあり平和を必要とする観光は一大産業だ。国は小さいが文化大国、との印象が強い。

それにしても、具体的な区分けを詳しくは聞いていないがオーストリアの教育文化予算は軍事防衛予算より大きいという。

首都ウィーンは今や世界でも最も平和で開かれた都市のひとつに数えられている。2007年秋、ダライラマが訪れオーストリアの大統領が会見した時、中国がオーストリアに強く抗議した。これに対しオーストリアの大統領は「ウィーンは(人々が反目する場ではなく)集まって語り合う所だ」と応じている。このような大統領を持つ国が疑いの目で見られることは、まずないだろう。

オーストリア・ウイーンの劇場(Austria,Vienna,Burgtheater)

photo by Gryffindor

source from http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Burgtheater_Vienna_June_2006_397.jpg?uselang=ja

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