韓国パク大統領が米国議会で演説できた本当の理由(大貫 康雄)
5月8日、韓国のパク・クネ(Park Geun Hye)大統領に、アメリカの上下両院合同議会で演説する機会が与えられたことを、日本のメディアはもっぱら韓国政府、韓国系米人が活発にロビー活動をしたために実現したとの報道をしている。
しかし、外国の要人の米議会演説はロビー活動だけで実現するものではない。あくまでもその要人の人格、業績が検討されるとともにアメリカの国益、その時の思考、雰囲気が関係することを理解しておかねばならない。
外国の要人がアメリカ議会で演説したこれまでの例を見ると、現在は特にアメリカ建国の原則(建前)である“人権”“自由と民主主義の擁護者”という点が肝心であることがわかる。また、自分の政策がいかに世界に必要であるかなどを理解してもらい、出来れば感動させる“発信能力”がなければ招かれることはまずない。
逆にロビー活動で無理に招いてもらっても演説が逆効果になることがある。
(1)アメリカは外国の要人に対し、外交上の効果(いわゆるアメリカの利益)になると考えられると大統領府がホワイトハウスに招いて顕彰し、議会は上院や下院が、あるいは上下両院の合同議会が招いて演説をさせる「栄誉」を与えるなどして関係の緊密化を図っている(上下両院の合同議会での演説は、下院議長が要人を招いて主催する)。
普段ニュースで報じられる大統領の一般教書演説などと同様、下院議長が下院に大統領を招く形で行われる。やはり合同議会での演説が最も栄誉あるものと議会側も招かれる側も見ているようだ。
アメリカ議会の記録では、1874年12月18日、当時のハワイ王国のカラカウア(Kalakaua)国王がアメリカ議会に招かれて演説(国王はこの時、悪性の風邪のため代読)。この時以来、外国の要人の演説は行われている(ハワイはカラカウア国王時代にアメリカ人入植者が増大。87年にクーデターが起こる。カラカウアが亡くなり、妹のリリウオカラニ(Lili’uokalani)女王が即位した91年、王制廃止。のちにアメリカが強制併合する)。
パク大統領野演説はアメリカ議会での113回目の演説となり、合同議会で演説し109人目の外国の要人となる。
また、1952年4月3日のオランダのユリアナ(Juliana)女王以来、女性としては12人目となる。
日本の皆さんには驚く人がいるかもしれないが、韓国の大統領として竹島(韓国名:独島)を武力占領し、竹島を含む周辺海域を韓国以外の漁船の立ち入りを一方的に禁止する「李承晩ライン」を設定し、日本漁船を銃撃、多くの漁業者を死傷させた韓国のイ・スンマン(Syngman Rhee)大統領が1954年7月28日にアメリカ議会に招かれている。
イ大統領の反日政策は際立ち、多くの日本人を殺傷しても平然としていた。イ大統領の一方的な政策にはアメリカも難色を示していたが、アメリカにとって何と言っても韓国は北の共産圏と対峙する国、立てる必要があったのだろう。
また、1989年11月18日には当時のキム・デジュン(Kim Dae-jung )氏の自宅軟禁を解いて韓国民主化への道を踏み出し、軍人出身ながら民主的な選挙で選ばれたノ・テウ(Ro Tae Woo)大統領が。
95年6月26日には民主化運動指導者だったキム・ヨンサム(Kim Yong-sam)大統領が。
98年6月10日には軍事政権の激しい弾圧にもめげず民主化闘争を戦ったキム・デジュン大統領が。
21世紀に入っても2011年10月13日、対米経済関係を強化したイ・ミョンンバク(Lee Myung-bak)大統領が、それぞれ招かれて演説をしている。
そしてパク大統領は6人目となる。
確かに韓国政府、韓国系米人の議会への働きかけは活発であるが、それだけで6人の大統領が合同議会に招かれると考えるのは浅薄である。何といっても上下両院超党派の多くの議員の賛同が必要だからだ。
韓国の歴史を振り返ると、日本の植民地から解放された後、冷戦下で南北に国が分断され、アメリカと同盟を結び北朝鮮と対峙する韓国。軍事独裁政権を国民自らの力で打倒し民主化を達成した韓国。産業力を向上させ先進国入りした韓国、などアメリカ社会に訴える歴史の歩み、実績がある。
また、アメリカ側にはアメリカが守り育て強い信頼関係を結ぶ国になったという自負がある。アメリカの議員たちの多くが、軍事独裁体制を倒して韓国の民主化を実現した指導者に敬意を表し、話を聞くのは良いことだと考えても不思議ではない。
(2)合同議会に2回以上招かれ演説した要人は3人いる。
第二次大戦と冷戦をともに闘い、協力したイギリスのウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)首相(41年、43年、52年)。
南アフリカ・アパルトヘイト廃止運動の指導者で、新生・南アフリカ最初の大統領として真実究明と和解を進めたネルソン・マンデラ(Nelson Mandela)大統領(90年、94年)。
それにパレスチナとの和平交渉を一旦は成立させた、アメリカが安全保障に最も気を配る国イスラエルのイツァーク・ラビン(Ytzak Rabin)首相(76年、94年)だ。
国でいうと第二次大戦から冷戦を通して協力関係を築いたイギリス。ラファイエット(Marquis de Lafayette)侯爵が独立戦争を支援し、イギリス同様西ヨーロッパの主要国となったフランス。この2カ国の要人がそれぞれ8回ずつ演説。
イスラエルと南の隣国メキシコが7回。イタリア、アイルランド、韓国6回、ついでドイツ(西ドイツ時代を含め)5回、インド4回、北の隣国カナダとアルゼンチン、オーストラリア、それにフィリピンが3回などとなっている。
時にはアメリカの国益(具体的には企業の利益か)を優先考慮した人選もある。
南ベトナムのゴ・ジンジエム(Ngo Dinh Diem)大統領を招いたのは、南北対立が激化する1957年5月だった。また、62年4月にはアメリカが支援して誕生したイランのパーレビ(Shah Pahlavi)国王を。66年9月にはフィリピンのマルコス(Ferdinand Marcos)大統領を招いている。冷戦初期には、中南米諸国の指導者を何人も招いている。
また、民主化闘争の指導者は良く招いている。89年9月にはマルコス独裁体制を倒しフィリピンの人民革命の指導者コラソン・アキノ(Corazon Aquino)大統領を招いた。そして冷戦が終わるや否や、人権・民主化闘争の指導者たちを次々に招いている。
冷戦終焉直後の89年11月15日には、後に大統領となるポーランドの労働運動「連帯」のレヒ・ワレサ(Lech Walesa)議長に演説する機会を与えている。
南アフリカのネルソン・マンデラ大統領の一回目の演説(90年6月)は、まだ大統領でなくANC(アフリカ国民会議)の副委員長の身だった。
その前の90年2月にはチェコとスロヴァキアの「ベルベット革命」の精神的指導者だったヴァツラフ・ハヴェル(Vaclav Havel)大統領を、92年6月には新生・ロシアのエリツィン(Boris Yeltsin)大統領も招いてもいる。
(3)今回のパク大統領の演説の“北東アジア諸国間の歴史認識の落差に警告を発した一節”は日本のメディアも報道した。安倍総理以下の閣僚や保守派議員の歴史認識が韓国、中国だけでなく各国でも問題視されているだけに、無視はできなかった。
日本のメディアの多くは、あたかも韓国政府や韓国系米人のロビー活動の結果と矮小化しているが、これは本質を見ようとしない報道だ。
この一節は演説の後段に出てくるが、パク大統領はその後、アメリカと協力しながら特に北東アジアでの平和と協力を進めるイニシアティヴを提案している。
個人的な感想で恐縮だが、パク大統領の「過去に目を閉ざすものは未来をも見えなくなる、と言われるが」という一句は、ドイツのヴァイツゼッカー(Richard von Weizsaecker)大統領のヨーロッパ勝利(ナチス・ドイツ敗戦)の日の連邦議会での有名な演説を思い出してしまう。多分、パク大統領もヴァイツゼッカー大統領の演説を読んでいるのだろう。
ヴァイツゼッカー大統領は「過去に目を閉ざす者は結局、現在にも盲目となる。非人間的な行為をきちんと心に刻み込まない者は再び、そういう危険(な状態)に陥り易いのだ」と加害国・侵略国ナチス・ドイツ国民の自分自身とドイツ国民に向けて発しているのだ。
政治家が発した演説としては、思考の深さから例外的に各国の人々に強い感銘を与え、その後何年たっても繰り返される一句となった。
ヴァイツゼッカー大統領の演説は、私のような戦後世代にも第二次大戦のアジア太平洋戦域での加害国・侵略国日本の国民として戦争の過去を直視し、近隣諸国との平和協力を真剣に考えるきっかけを与えている。
ヴァイツゼッカー大統領は92年にアメリカ合同議会に招かれ演説している。
アメリカ議会は合同議会とは別に、上院、下院それぞれで外国の要人を招いている。ここでは日本人も演説している。
占領体制下の1950年、アメリカのNGO「MRA(道徳再武装)」の主催で、日本の各界、各地からアジア、ヨーロッパ、アメリカへの70名(夫婦連れも含む)の訪問が実現した。
この時、衆議院議員の栗山長次郎がアメリカ議会上院で戦争に対する悔恨と謝罪の演説を、また同じく衆議院議員の北村徳太郎が下院で戦争を引き起こしたことについての謝罪の演説をしている。NYタイムズなど当時の新聞は「これほど早く日本と和解できたとは」と報じている。
MRA(道徳再武装)は、日本語では厳めしい訳語になっているが、元々は軍備増強を進めるナチス・ドイツに対抗して、道徳を再武装しようとオクスフォードの学者たちが立ち上げた運動団体だ。
戦後もいち早く、(西)ドイツ国民と連合国国民との交流と和解を進め、日本でも占領軍司令部と協力して日本国民と各国との交流・和解を進めた。その後は日本支部が日本国民と各国民との交流と理解促進の活動を続け、現在はIC(Initiative for Change)と改称して活動中。
戦後のMRAの活動については「日本の進路を決めた10年」(バズル・エントゥイッスル・Basil Entwistle著、藤田幸久訳〈現・参議院議〉。ジャパン・タイムズ社)を参照することをお薦めする。
アメリカにとっては、旧敵国で占領下の日本に対する寛大な対応を示す機会にもなった。
その後57年6月、当時の岸信介総理が下院で演説する機会を与えられている。これは日米安保条約締結を目指す両国の思惑の上に実現した演説である。
繰り返すが、アメリカ議会はそれなりに自分たちの国の利益や、自分たちが良いと信じる価値観に照らし合わせて外国要人を招く。厳密な基準がある訳ではない。かなりご都合主義的な一面もある。
それを前提に米合同議会及び上下各議会での外国要人演説を概観しても、残念ながら我々日本人が選ぶ政府首脳には、各国を唸らせる発信力がないことがわかる。
【NLオリジナル】
Official White House Photo by Pete Souza http://www.whitehouse.gov/blog/2013/05/07/president-obama-meets-president-park-south-korea