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歴史の暗部を検証・公開するウィーン・フィルの決意(大貫 康雄)

「ウィーン・フィルの歴史検証」

以前、オーストリアは原発を完成させながら、運転開始直前に国民投票で原発廃止を決定した国だとお伝えした。そのオーストリアをナチス・ドイツが軍事併合(Anschluss)して今年で75年。オーストリアではこの現代史の悲劇的事件を検証するいくつもの動きが見られる。

そのひとつ、ベルリン・フィル(Berliner Philharmoniker)と並ぶクラシック界最高のオーケストラ、「ウィーン・フィル(Wiener Philharmoniker)」が、ナチス体制下と戦後の自身の歴史的恥部と言える歴史を検証し、公式ウエブサイトで公開を始めた。

すでに欧米メディアが報じ、日本でもAFPなどで報じられているので知る人も多いだろう。ウィーン・フィルは8月末までを目標に独立した学者たちの検証作業を進め、検証が済んだ事実から随時公式ウエブサイトで公開していく。

芸術が時の権力によって利用されるのは古今東西を問わない。ナチスは積極的に芸術・美術分野の活動に介入し、プロパガンダ機関として利用したが、公式ブログでは、ウィーン・フィルの中にナチスの政策に積極的に加担する者が数多くいたという事実を直視している。

そこには自身の歴史の暗部を見詰めて、結果を隠さず、公開し蛮行は二度とするまいという決意が窺われる。

(1)ヒトラーが自らの母国オーストリア併合を宣言したのは1938年3月12。しかしオーストリアのナチス党員はその前にクーデターを起こし、すでにオーストリアを事実上支配。ナチス・ドイツ軍が国境を超える時は大多数の国民が歓呼の声で迎え、それから数週間後に行われた国民投票では99%が併合に賛成した。

一方で10万人を超えるユダヤ人、ジプシー(ロマ)などと共に反対した多くのオーストリア国民がナチスによって処刑されている。

戦後、オーストリアは、併合によるナチスの最初の被害国との位置から一転、ナチスの手先となり蛮行に最も加担した国との歴史認識を広め、政府は被害者への補償と財産返却を進める一方、自分たちの国が犯した罪を認識させる政策を進めてきた。

この3月、ウィーンの中央墓地で開かれた祈念式典では、ヴェルナー・ファイマン(Werner Faymann)首相が「我々は断じて、国の暗黒の時代を忘れたり矮小化したりしてはならない」と言って、人種差別やファシズム、極右過激主義に対し一致団結を呼びかけた。

(2)ウィーン・フィルのナチス時代の歴史検証と公開は、ウィーン大学現代史研究所のオリヴァー・ラートコルプ(Oliver Rathkolb)教授の研究がきっかけとなった。

教授は2011年4月以来、ドイツ、オーストリアの図書館、公文書館を巡りながらナチスによって殺され、追放されたウィーン・フィルの楽団員の資料収集をしていた(2000年以降新しい資料が入手可能に)その結果、5人が強制収容所で殺され2人が収容の過程で死亡9人が亡命を余儀なくさせられていた。

また11人の団員はユダヤ人と結婚していたり、祖先にユダヤ人がいたりして「半ユダヤ人」と呼ばれ、絶えず団員資格停止(=収容所行き)や取り締まりの脅迫の中で生活していた。

その一方で、併合前からナチス党員として非合法活動をしていたのは団員120人余りの内20%もいたこと。1942年の時点では123人の団員の内、半数近い60人が党員証を持つナチス党員だった、内2人はひと際悪名高い突撃隊員(SS)だったことも明らかになった。

当時のオーストリアは非ドイツ系を含め人口670万人。成人のナチス党員が50万人だったのと比較するとウィーン・フィル内のナチス党員率が異常に高いことがわかった。

戦後はこのうち4人を即刻解雇し、6人を退職(年金生活)にしたが、数年後、旧ナチス高官だった団員2人を復職させ、記念メダルを贈ったりしている。

(3)ウィーン・フィルは今年1月、当時の団員の生活、政治、社会、家庭環境、個々の団員の置かれた心理的な状況など、多角的な視点から進め、より統合した検証成果にするため、ラートコルプ教授ら3人の歴史学者に独立研究を委嘱した(ウィーン・フィルは、ウィーン国立歌劇場オーケストラの団員が独自に結成するオーケストラで、併合当初、第3帝国にはベルリン・フィルしか必要ないと考えたヒトラーが、ウィーン・フィルを解散しようとしたのを指揮者フルトヴェングラーたちがヒトラーを説得して解散方針を変更させている)。

この当時のウィーン・フィルと国立歌劇場との関係、第1次大戦でオーストリア・ハンガリー(ハプスブルク)帝国が崩壊後の(ドイツ系主体の)オーストリア国民の心理的に不安定な状況、第二次戦後もウィーン・フィルが旧ナチス党員の名誉回復の動きをした経緯、さらには第二次大戦前の1927年の特別コンサートから始まり、今や世界中に中継される恒例のニューイヤー・コンサート(Neujahrs Konzert)の紆余曲折と、人事面や演奏曲目の選定などでどこまで非ナチス化が進んだかなどを明かにする方針だ。

(4)ウィーン・フィルの公式ウエブサイトを開くと、まずドイツ語で、ついで英訳が完成次第英語で検証結果が公開されている。この原稿を書いている時点で27の随筆が公開されている。

また、ここには当時の写真も公開されている。例えば*1936年のコンサートの写真。

指揮者、アルノルト・ロゼ(Arnold Rose)はロンドンに逃れたが、コンサート・マスターのユリウス・スヴェルカ(Juilius  Stwertka)は逃げ遅れ、1942年、現在チェコ共和国のテレジエンシュタット(Theresienstadt)の強制収容所で死んでいる。

ヒトラーが演説している写真も載っている。

公式ウエブサイトでの公開は通り一遍ではない。実に細かくオーケストラ全体だけでなくバイオリン奏者たちはどうなったか、コンサート・マスター達はどうしたのか、さらには聴衆はどういう態度だったのか、などがすでに検証成果として公表されている。

ウィーン・フィルは、この検証成果を基に来年、展示会を開く予定だという。世界で活動して行くためにも、一過性にはしないという決意がうかがわれる。

【NLオリジナル】