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フクシマの声/「英会話講師・スティーブ・ダンさん」(久保田 彩乃)

VOICE OF FUKUSHIMA~福島に生きる人たちの声~【第二回】

「震災直後、日本では暴動や略奪がおきなかった。これは本当にすごいことだと思います」

(英会話講師/スティーブ・ダンさん)

大学3年生の時に来日し、岡山大学で学んだアメリカ・オレゴン州出身のスティーブ・ダンさんが、郡山に来たのはいまから7年前の2006年2月。

友人の「郡山の英会話教室が先生を探しているけど、やってみたら?」という一言が郡山で仕事をするきっかけだった。

そんなスティーブさんが震災に遭ったのは、仕事場へ向かうため郡山駅前のビル街を歩いている時。

「とても風の強い日でした。緊急地震速報が鳴ったと思ったらすぐに揺れ始め、建物の上からコンクリートの破片などが落ちてきたので、近くの薬局に入りました。薬局にいた人たちも揺れが強くて動揺していたし、僕もすごく揺れていたことしか覚えていません」

震災当日から1週間ほどたち、交通機関が少しずつ動き出すようになるとスティーブさんは郡山市から約65km離れた会津若松市の友人のところへ避難した。すると、故郷の家族から「すぐにアメリカに戻ってきなさい」との連絡が入る。

「その時、アメリカに戻るつもりはまったくありませんでした。でも親を安心させるために、一度帰って話をすることにしたんです。だから、最初から郡山に戻ってくるつもりでアメリカに行きました」

スティーブさんは親を説得するためにアメリカへ一時帰国する。

「故郷に戻っている10日間、親からは『日本には絶対に戻るな』とずっと反対されていました。やはり原発事故があったので、危ないのではないと心配だったようです。当時、アメリカ政府は原発から80km圏外へ出るようにと言っていました。でも私は20km圏外で大丈夫という日本の報道を信じました。アメリカ政府は日本にいるアメリカ人を守るため、より安全なところにいてほしいと考えて80km圏外に非難しろと判断したのだと僕は考えています。」

スティーブさんは故郷で家族との話し合いを続けた。彼の日本に戻りたいという意思は固かった。9日目、とうとう両親が折れた。「あなたが決めたことなら仕方ない。でも本当に気をつけなさいよ」と。

「郡山に戻ることへの不安は、実はちょっとだけありました。でも、仕事はビルの中だから被曝もそれほどしないだろうと……。もし、外に長くいる仕事だったら違う考え方をしていたかもしれません。食べ物もちゃんと線量を計ってくれているみたいだから大丈夫だと思っています。原発事故に関しては、情報の少なさに疑問を感じていますが、きっと情報があまりにも少ないからニュースにも出ないんじゃないかと思います。だから、いまは自分で調べたりもしています」

スティーブさんが、それほどまでに郡山にいたいと思うのはなぜなのだろうか。

「それは日本が大好きだから」

2005年の夏、アメリカでハリケーン・カトリーナが発生し、大きな被害をもたらした。その時、一部の地域では暴動や略奪などが発生した。しかし3.11の震災直後の日本ではそういうことが起きなかった。「これは本当にすごいことだと思います」とスティーブさんは言う。

それが、スティーブさんを日本に留まらせた理由のひとつかもしれない。

「震災から2年が経ちますが、なんだかもう何年も前のことのような感じがしますね。だって、今は普通に生活していますから。だから、震災はなんだか遠いイメージになってしまっています」

震災後、福島を離れる人は多い。だが一方で、スティーブさんのように福島に残る選択をした人もいる。

どちらが正解ということではない。それは「自分はこれからどう生きていくか」という問いに、それぞれが向き合って出した答え。ただ、それを実行したまでのこと。

福島県民は原発事故のあったあの日から今日まで、この問いを一瞬でも忘れたことはないだろう。そして、未だ答えを出せずに迷っている人だってたくさんいるのだ。

スティーブさんのように日本を愛し、信じ続けている人に対して、日本政府やマスコミは“裏切っていない”と自信を持って言えるのだろうか。

[caption id="attachment_7000" align="alignnone" width="620"] 郡山で英会話講師をしているスティーブ・ダンさん[/caption]

 

※「VOICE OF FUKUSHIMA」のラジオ版は「U3W」(http://u3w.jp)で聴くことができます。

【VOICE OF FUKUSHIMA&NLオリジナル】