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2011堕国論(3)再掲 「生きよ、堕ちよ」変わらぬ日本の私(上杉隆)

12月23日、布袋寅泰(元BOOWY)の30周年ツアーは被災地・仙台で幕を閉じる。

7月のコンプレックスの再結成による東京ドームチャリティライブ、そこで4億円もの支援金を集めたロックスターの2011年がそうやって終わろうとしている。

「何ができるんだろう。3.11の呆然とする中、しばらくして俺は気づいた。やはり俺にはこいつ(ギター)しかない。30年以上一緒にやってきたこの相棒で表現するしかないんだ」

渋谷公会堂での演奏の合間、そう呟いた布袋氏の言葉を聴きながら、筆者は、継続することの力強さ、さらに、またひとりの人間がなすべき可能性について、想いを巡らせていた。

ひとりひとりにできることは小さい。だが、今回の震災で、「何かしたいのだ」と考える機会を、ひとりひとりの日本人に与えるきっかけになったことは大きい。

布袋氏は、それをギターという道具を使ってロックで届けようとした。その布袋氏の言葉に符合するのが、広河隆一氏(フォトグラファー)の言葉だった。

「何ができるのか、そして何をしたのか。3.11は、ひとりひとりのジャーナリストにそのことを突きつけた」

「記者会見をオープンにしてください。まもなく世界中から一線級のジャーナリストたちが日本に到着します。その時に政府の会見をクローズドにしていたら、まちがいなく情報隠蔽を疑われます。そしてそれがデマとなり、世界中で日本政府の信用、さらには日本の国家全体の信頼を堕とすことになります。最初が肝心です。放射能事故の際はなおさら完全な情報公開が必要です。なんなら、私は入らなくてもいい。とにかく、外国人記者だけでもいいから会見に入れてください」

官邸の脇、途中からは国会議事堂前の坂道に自動車を止め、筆者はこうした電話を繰り返し繰り返しかけ続けた。相手は内閣官房、閣僚、民主党幹部、秘書、党職員、そして官邸中枢だ。

だが、その震災後の100時間ほど、筆者の人生において無力感を覚えた時間はなかった。

官邸の笹川武内閣広報室長(当時)、西森昭夫内閣参事官(当時)は相も変わらず、煮え切らない態度を続けている。私の口調は徐々に荒くなり、3月14日以降の電話では、ほとんど怒鳴ることが続いていた。

「原発事故だ。原発事故! 人の命が懸かっているんだ。国民の命だぞ。お前ら役人に何の権限があって情報を遮断するんだよ。とにかく、こちらには現地の情報があるんだ。フリー記者、海外メディア、自由報道協会の記者たちが現場に入り、そこの情報を持っているんだ。ガイガーカウンターで測定した数値もある。こんな時に政府を批判しようなんてジャーナリストなんていないよ。いいか、おい、記者会見は質問ばかりではない。記者が政府に情報を伝えるという機能もあるんだよ。とにかく、早く官房長官、副長官でもいいから伝えろ!」

前の日の3月13日、筆者は原発から3キロメートルのところに到達した広河氏と電話で話していた。

広河氏は、子どもたちの遊ぶ病院の敷地内で3つあるガイガーカウンターを稼動させた。すべての計器の針は振り切れ、それは20年来チェルノブイリを取材している広河氏にとっても初めての経験となる恐ろしい出来事であることを示していた。

とにかく、子どもと女性だけでも逃がさなくてはいけない。首長に掛け合っているところですが、なかなか信じてもらえない」

その広河氏の言葉を聞いた私は、官邸への圧力をさらに強める覚悟を決めた。携帯電話のバッテリーはすぐに消耗し、自動車の電源系統から直接、充電しつつ、電話を続けるようになった。

また、ちょうど同じころ、自由報道協会所属のフリーライター島田健弘氏の知人の自衛隊員が、福島第一原発への最初の突入を試みていた。それは初めての現場の声として、筆者らの背筋を凍らせるに十分な情報だった。

「ダメだ。遠くに避難しろ。ここは無理だ」

島田氏は迷いながらもそれを自由報道協会のメーリングリストにアップした。情報源との兼ね合いなどもあるものの、人命救助を優先させた末の判断だった。

その時期、そうした決断をした人物はほかにもたくさんいる。三号炉の緊急冷却装置の設計者でもある上原春夫・元佐賀大学学長もそのうちのひとりだ。

「燃料棒が空気に触れている今、メルトダウンは確実に始まっているんだよ。緊急冷却装置を作動させ続けて、時間を稼げば、どうにか対応できるんだよ。なんで、動かさないのかな。上杉さん、伝えてくれよ」

上原氏による原子炉のメルトダウンの可能性にかかる重要な情報は、翌14日、氏を紹介してくれた原口一博元総務大臣の口から、直接、官邸のオペレーション室に届けられた。

その原口氏は今回の震災後、もっとも献身的に行動した政治家のひとりである。仮に原口氏がいなければ、福島の原発はもっと酷いことになっていたに違いない。それは断言できることだが、残念ながらその原口氏の評価は低いものとなっている。

なぜか。それは記者クラブメディアが自らの「誤報」を隠すために、原口氏を悪者に仕立て上げることを続けているからだ。その証拠はたくさんある。だが、そのすべてをいま明かすことはできない。ただ、筆者はその証人でもあり、確固たる自信をもって原口氏の涙ぐましい努力の数々を証言することができる。

3.11直後のうんざりするようなあの情報隠蔽の中、原口氏は果敢に官僚機構に挑んだ数少ない政治家だった。

だが、当時の官邸は、いや現在もそうだが、完全に機能不全を来たし、そうした献身的な人物たちが寄せる情報を吸収する余裕はなかった。むしろ、官僚と記者クラブが伝える偽情報ばかりを信じ、逆に、現場からの正しい情報を排除するという過ちを繰り返すことになる。

それは9ヵ月後のきょう(12月22日)、ようやくメディアが当時の真相を明らかにし始めたことでも、本コラムの読者のみなさんならばすぐに理解できるだろう。

〈東京電力福島第一原子力発電所の3号機で、水素爆発を起こす前日の3月13日に、現場の運転員が非常用の冷却装置を所長らがいる対策本部に相談せずに停止し、原子炉を冷やせない状態が7時間近く続いていたことが、政府の事故調査・検証委員会の調べで分かりました。

福島第一原発では、1号機に続いて3号機も原子炉が冷却できなくなってメルトダウンを起こし3月14日に水素爆発しました。政府の事故調査・検証委員会の調べでは、この前日の13日未明に、3号機の運転員が原子炉を冷やす「高圧注水系」という非常用の冷却装置のバッテリーが切れることを懸念して、消火ポンプによる注水に切り替えようと装置を停止したということです。ところが、注水ができるように原子炉の圧力を抜くための弁の操作に必要なバッテリーを用意していなかったため、弁は開かず、再び冷却装置を稼働させようとしましたが、動かなかったということです。このあと、3号機では車のバッテリーを集めて弁を開け、消防ポンプによる注水が行われましたが、原子炉の冷却が7時間近くにわたって中断され、その後メルトダウンに至ったということです。装置の停止が対策本部に伝わったのは停止から1時間以上あとだったということで、事故調査・検証委員会は、冷却装置を止めるという重要な決定を事前に所長らがいる対策本部に相談しなかったことは問題だったとみています。福島第一原発では、1号機でも、非常用の冷却装置を運転員の判断で停止したのに対策本部に伝わらず、所長らは冷却装置が動いていると誤って認識していたことが明らかになっています。こうしたことから事故調査・検証委員会は、安全上重要な情報を現場 と対策本部が共有できなかったことが事故対応の遅れにつながったとみて、今月26日に公表する中間報告で指摘することにしています〉(12月22日NHKニュース)

こんなことは3月13日、遅くとも15日までにはすべてわかっていたことだ。結局、筆者らがずっと指摘してきたように、今回の原発事故は「人災」だったのだ。

だが、NHKをはじめとするメディアは当時、そうした可能性を一切報じなかったばかりか、真実を口にする者を次々とメディアの世界から追放しはじめたのである。

果たして、戦時中の「大本営」を髣髴とさせるそんなことがこの現代日本に起こるのだろうか。いや、実際にそれは起きたのだ。

政府と記者クラブは、3.11を境に事実上、自分たちと論を異にする言論人たちを社会から遮断し続けた。それはチュニジア、エジプト、リビアの独裁者たちが行った情報隠蔽とまったく同じ構図である。

いや、わざわざ世界に例を探す必要もないだろう。かつて日本においても同じことが行われていたではないか。そう、日本のパワーエリートたちは再び70年前のあの愚挙を繰り返しているにすぎないのだ。

まさか、そんなことはなかった、とは言わせない。3月、原発事故による瓦礫とともに築かれたメディア「誤報」の山は、いまなお撤去されること無く積み上げられたままである。自らの目で確かめるがよい。

その誤報の山はまた、TBSを筆頭に、まともな言論人たちを追放した責めを将来にわたって負うことになるだろう。すべての記者クラブメディアが背負った国家と国民への重大な「犯罪」は2011年の歴史に確実に刻まれている。

いったい誰が放射能の危険性を最初に追及したのか。いったい誰が東京電力の隠蔽に迫ったのか。いったい誰がこれから日本の未来図にとって重要な原発事故の工程表を明らかにさせたのか。

少なくともそれは政府でも、役人でも、東電でも、ましてや大手メディアの記者でもない。あの三月、自由報道協会を筆頭とするフリーランスのジャーナリストたちがいなかったら、果てして日本はどうなっていたか。それは考えるだに恐ろしい。現在の日本社会から事実上、追放された者たちの仕事によって、ほとんどすべてが明らかになったのだ。

仮にあの三月、ジャーナリストの日隅一雄氏がいなかったら、あるいはフリーライターの木野龍逸氏がいなかったらと考えると筆者は暗闇に落ちるような錯覚を覚える。

とくに日隅氏は、自らの本業である弁護士業務をすべて中断させ、東京電力本店に通い続けた。あの底冷えする暗いロビーに座り込み、記者クラブの記者たちが独占している椅子の隅で立ち続けていた日隅氏。体調不良を洩らすも、彼の使命感は東電会見から離脱することを許さなかったのだ。

その結果、5月、耐えに耐えた末に向かった病院で余命半年の末期がんを宣告されることになる。だが、それでも、日隅氏は政府と記者クラブの隠蔽に立ち向かい続けた。

週に2回開かれる統合対策本部の記者会見に姿をみせ、弱って痩せ細ったその体から、か弱き声をマイクにぶつけ、文字通り命を賭けた質問を繰り返している。

12月、日隅氏の余命はマイナス一ヵ月になった。それでも彼の姿は東京電力本店に認められていた。咳き込みながらも、いつものように鋭い質問がマイクを通じて繰り出される。だが、いまの日隅氏に残された力はそこまでだ。質問を終えると机に突っ伏す。そして肩で息をしながら、その耳で回答を聞くのがやっとのこともあるのだ。

しかし、政府・東京電力は、その日隅氏の唯一の心の叫び場である会見を閉鎖することに決めてしまった。なぜ、政府と東電による統合対策室は命の明かりを灯しながら、真実に向かって戦う者を排除するのか。細野豪志原発担当相によると、会見の閉鎖というそのアイディアは同業者、つまり、筆者たちとおなじ記者からもたらされたものだという。記者クラブの記者はそこまで腐りきっているのか。

また、福島第一原発の現場にいる2000人を超える作業員たちも同じだ。まさしく日々、命がけで「冷温停止状態」の政府の保証する「安全な」原発の収束作業に当たっている。

3月以降、すでに5人以上の作業員が命を落としている中、現場検証もされず、死因特定もされず、親会社の東京電力への捜査も、証拠保全さえもされない中、「安定して安全な原子炉」(政府)の作業に当たらされているのだ。

日本という国家が彼らを救済することは絶対にないだろう。なぜならこの9ヵ月間、どんな死因であろうが、政府と東京電力は一例たりとも放射能の影響による健康被害を認めていないからだ。

政府・東京電力は賠償逃れを確定させるため、今日の今日までこの事故が「人災」であるということを伏せ続け、代わりに「津波」や「地震」のせいにし、時間稼ぎをしているのである。そして、原子力賠償法に基づくそうした賠償逃れの片棒を担いできたのがメディアだ。記者クラブという世界でも稀に見る不健全な利権システムを完成させた大手メディアの記者たちだ。それはまさしく「大本営発表」以外の何者でもない。

あのころ、官邸は何をしていたのか。筆者がかけ続けた電話をすべて拒否したあの100時間、政府と記者クラブは何を諮り、実際どのような「犯罪」を繰り返していたのか。

その欺瞞の証拠を少しだけお見せしよう。

〈記者 IAEAへの要請については首相はなんと言っていたのか?

顧問 早期に先遣隊というのは時期的な問題もあるから、そういうのは外国の受け入れを含めて細野さんのところだったかな、そこに指示を出すと。

記者 国民が安心していない、ということか?

顧問 説明に対して、やっぱりわかんねえんだよ。やっと専門用語じゃない、平易な言葉で話すようにはなったけれども、やっぱり国際機関の中でこういう処理をしていけば大丈夫だとか、これがものすごく広がることにはならないよ、とか政府や事業者がいったって、なんとなくそうなのかなとは思うわね。

記者 首相はそれについての問題意識は持っていたのか?

顧問 本人は「ぼくはものすごく原子力には強いんだ」と。詳しいんだといっていた。辻元さんが「まいっちゃうよねえ」とかいっていたね。ハハハ。

記者 危機感がないようだが?

顧問 福島が弾けた後、最大の危機の震災の問題、日本の半分はつぶれるんじゃないかと。このまま、もしチェルノブイリと同じようなことになったらね、という危機感の中で対応した、ということだ。技術的な面も含めて、自分は詳しいからものすごい対応をしてきたと。でも、ここから先、収まりそうになったので、原発問題については枝野さんと福山さんのかかわりかたを少し軽減させたいと。

記者 軽減させる、というが、それは首相の言葉?

顧問 それは少し、荷を軽くするといったのかな。原子力ばかりしゃべっている話じゃないわけだから。

記者 4号機も近付けないようだが。

顧問 炉心に完全防護で入った経験からいうと、10分交代でやる作業になるわけだよ。今もうちょっと短い期間なのかな。一番いいのはわかるところから注入するのがいいんだけど、これが接近できないとなるとね。非常にタイトなところを渡っているのは間違いない。

記者 「ぼくは原子炉に強いんだ」の発言はどういう文脈で出たのか?

顧問 電力事業者の危機感が薄いねと。だから最終的に乗り込んでいって、もっと危機感をもって対応してくれないかという話をしたなかで出た。

記者 それは首相が話した?

顧問 そうですよ。自分としては原子力の問題については詳しい。まあ、たぶん自分は政府の中で一番知っていると思っているんじゃないかって。

記者 政府で一番知っていると言ったのか?

顧問 あ、それは私の感じだが。

記者 東日本が、というのも首相の発言か?

顧問 仮にだよ、仮に。本当に事故が1から4まであるいは5やら6まで含めてあったら、東日本は危機的な状況になるわな。

記者 首相がいったのか?

顧問 数字はいっていない。福1が本当に最悪の事態になったときには東日本がつぶれる、というようなことも想定をしなければならない。そういうことに対する危機感が非常にうすいと。自分はこの問題については詳しいので、余計にそういう危機感をもった対応をしてほしいということで電力に乗り込んだということだ〉

ここでいう「顧問」とは、内閣総理大臣特別顧問で連合の笹森清氏のことである。それにしてもこの緊張感のなさは何なんだろうか? こうしたやり取りをずっと続けて、原発事故の本質については何も報じない、それが記者クラブメディアのやり方だ。

だが、報じない代わりに、上司を喜ばせるだけのこうした「懇談メモ」を作り続けている、それが、悲しいかな、日本のジャーナリストたちの主たる仕事なのである。筆者は彼らに対して、心からの同情を禁じえない。同時に、大いなる軽蔑の目をも向けざるを得えない。そう、筆者の手元にある40万ページにも及ぶ「記者メモ」のほとんどは、こうした政局ネタばかりなのである。

筆者は、本稿をもってジャーナリストを休業する。それはフェアでない言論空間しか持たない現代日本社会への絶望に対してではない、同業者たちへの大いなる抗議の意味と、新しい日本を築くためのひとつの方法論としての休業である。

日本は一度堕ちるところまで堕ちなければならないのかもしれない。終戦の翌年(1946年)、坂口安吾が喝破したようにそれ以外にいまの日本という国家を建て直す道はない。

記者クラブシステムを象徴とする「偽装設計」による国家の成り立ちは、もはや滅びの瀬戸際にまで日本を連れて行った。政府、東電、経済産業省、マスメディアなどで構成される「原子力ムラ」という腐った「建築資材」では、じき全体の崩壊を招くことになるだろう。

66年前のあの敗戦後の廃墟の中、坂口安吾はこう書いた。

〈戦争に負けたから堕ちるのではないのだ。人間だから堕ちるのであり、生きているから堕ちるだけだ。だが、人間は永遠に堕ちぬくことはできないだろう。なぜなら人間の心は苦難に対して鋼鉄の如くでは有り得ない。人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚かなものであるが、堕ちぬくためには弱すぎる。人間は結局処女を刺殺せずにはいられず、武士道をあみださずにはいられず、天皇を担ぎださずにはいられなくなるであろう。だが他人の処女でなしに自分自身の処女を刺殺し、自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく堕ちる道を堕ちきることが必要なのだ。そして人の如くに日本も亦堕ちることが必要であろう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救わなければならない。政治による救いなど上皮だけの愚にもつかない物である〉(『堕落論』新潮文庫)

自らを直視し、堕ちることのできない政治はウソである。自らの過ちを認め、訂正しながら堕ちることのできない記者クラブは欺瞞である。そうした社会制度を打倒しない限り、3.11からの日本の真の復興は有り得ない。

この12年間、ジャーナリストとして筆者のやってきたことは、この腐敗したシステムの綻びを世に問い続けることであった。そしていま別のアプローチでこの日本の病巣に向かっていく時期がやってきたようだ。

大本営メディアによるこの腐敗したシステムはいちど滅ぼさなくてはならない。そのために筆者はアンシャンレジームとともに堕ちる道を覚悟している。自ら、そのシステムもろとも地獄に堕ちる以外に日本のジャーナリズムを再生させる道はない。

その最初の一撃が40万ページに及ぶ、「懇談メモ」と称する、政府とメディアの談合の「証拠」を公開していくことだ。

なにより、まず、この「談合」の実態を本コラムの読者に問いたい。それでもなお、みなさんは政府を信じ、そしてメディアを信じることができるだろうか。

結論は各人の自由である。だが、その結果、そうでないと感じ、その革命のためになにかをしなくてはならないと思えば、ぜひとも行動に移してほしい。

それはどんな方法でも構わない。もちろんギターでなくてもいいし、カメラでなくてもいい。

ひとりひとりができることを考え、そして実際に行動に移すだけいいのである。ともに堕ちる覚悟さえあれば、きっと日本は変わるだろう。いや、それ以外にこの日本を救う道はないのである。

「生きよ、堕ちよ」

まさしく65年前に安吾の書いたこの言葉こそ、すべての日本人に欠かせない言葉だ。未来の日本人のために一緒に堕ちようではないか。それがジャーナリストとしての私からの最期のメッセージである。

野田首相が「事故収束」宣言を発表した翌日、DAYS JAPAN編集長の広河氏は、その総会の冒頭挨拶でこう述べた。

乾杯の挨拶を待つ間、筆者はその言葉を自らに向けて、深く反芻させていた。

いったい3.11のあの日、筆者は何をしていたのだろうか。

そう、そういえば、あの日、筆者はいったんすべての取材活動を休止し、あるひとつのことに集中、猛進していたではないか。それは、一瞬の判断での決断と行動であった。