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日本の民主主義化の芽をつんだ“小沢一郎暗殺事件”(大貫 康雄)

「小沢一郎事件~今様政治家暗殺事件」

小沢一郎氏を対象にした事件は民主党の政権交代の可能性が現実に出てきた2008年11月ごろから霞ヶ関や永田町でささやかれ始めた。その翌年2009年3月の東京地検特捜部による強制捜査以来、小沢氏に対する執拗な攻撃は、変質した末の民主党・野田政権が解散を決めるまで続いた。民主党政権成立前夜から終焉の時まで。戦後日本の政治史上忘れてはならない事件である。

この小沢一郎事件について月刊「マスコミ市民」編集代表の大治浩之輔氏が鋭く本質を突く一文を「マスコミ市民12・12号」に載せている。大治氏は元NHK社会部記者で数々の公害問題の取材で知られる。日本の報道界の大先達。ここに大治氏の了解を得て全文をそのまま紹介する(原文は縦書き。一行当たりの字数の違いは御容赦頂きたい)。

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小沢一郎事件~今様政治家暗殺事件

東京地検特捜部が「小沢一郎事件」を始めたのが、2009年3月3日。戦後初めての本格的な政権交代が実現する2009年8月30日の総選挙の直前であった。政権交代必至の野党党首に政治資金規正法で強制捜査、バランスの取れない異例の非常識な捜査である。

2012年11月12日。その「小沢一郎事件」を東京高裁が無罪判決で締めくくった。

小沢の政治団体・陸山会が秘書寮新築のため2004年10月に3億5200万円で東京世田谷の土地を買った。その取引の届けを、本来の2004年でなく翌2005年の政治資金報告書で届けたのが犯罪になるか。担当秘書は、届がずれたのは、土地の移転登記が翌年にずれたのに合わせたので適法だと思っていたと抗弁。

検察はこれを認めずに秘書を起訴。そして、検察審査会が小沢を強制起訴。『秘書に任せたていた』といえば政治家本人の責任は問われなくていいのか」「市民目線からは許しがたい」という、罪刑法定主義を無視した衆愚の暴論で小沢をも起訴すべしという議決を繰り返し、小沢は強制起訴で被告になってしまった。

高裁判決は、「小沢は秘書が違法な処理をしていると思っていなかった」として“共謀”の成立を認めず、一審に続いて無罪。そればかりか、そもそも担当秘書も「登記に合わせて所有権が移転すると信じていた可能性がある」と認めて、刑事責任を否定した。犯罪は無かった、火の無いところに煙を立てたようなものだ。いったい検察は何を目的として、「小沢事件」を仕掛けたのか。と言いたくなる判決だ。この間に、季節は移り、政権交代への期待と希望は、幻滅と失望に変わっている。

高裁判決の翌日、「小沢事件」が無ければ首相になっていたはずのない野田が、かつて、へなへなと政権を投げ出した自民党の安倍を相手に「11月16日に衆議院解散」を宣言して、幻滅の政権交代の終わりを告げた。

小沢事件と民主党政権は、「始まり」も「終わり」もほぼ同時である(「小沢事件」は検察役の弁護士側が上告をすれば、まだ引き伸ばして小沢を被告の座に置いておくことが可能だった。しかし、野田の「解散宣言」のあと、検察役弁護士は上告を“断念”した)。

この“政権の消長”と“事件の推移”との時期の一致は、「小沢一郎事件」の政治的な狙い・意味を、わかりやすく示している。政治的狙いとは、〈本来、この政権交代を党首として主導するはずであった、一人の政治家を、無実の罪にひっかけてでも、すくなくともこの交代政権が続いている期間、政治の表舞台から追放する〉、ということである。「小沢一郎事件」とは、今様の政治家暗殺事件、つまり「小沢一郎暗殺事件」であった。

日本の戦後の政治の流れからいえば、2009年8月30日の地滑り的な政権移動は、革命であった。それが掲げたのは、内政ではアメリカ型の新自由主義(金持ちはより金持ちに、貧乏人はより貧乏になる自由)からヨーロッパ型の社民主義的な福祉社会への基本的な転換。外に向かっては、アメリカ隷属からの相対的自立とアジア重視、であった。もちろんこれは、旧政権・自民党とそれにつながってきた旧体制支持派(経済界・官僚組織・大マスコミ)と、日本=自民党として対日政策をとってきたアメリカとを、同時に相手に回しての大難問であった。

崖っぷちに隘路を切り拓いていくような仕事だった。政治的なリアリズムと緻密さ、相手の手の内を充分に知り尽くした剛腕も必要だった。鳩山のようにヴィジョンだけというのでなく、ヴィジョンに到達するため、敵に応じて闘いを組み立てられる、味方に引き込むこともできる、リアリズムが必要だった。地滑り的に大勝した民主党の中で、それが務まるのは「小沢一郎」以外にいなかったろう。それを一番よくわかっていたのは、民主党ではなく、旧体制の側だった。だから、彼らは、「小沢一郎事件」が東京地検によって仕掛けられるや、一致協力して、表舞台から消す“暗殺”に手を貸したのである。

12、13日を経た11月14日の朝日の論説面。社説が2本『マニフェスト バラ色に染めるな』『週刊朝日問題 報道の自覚に欠けた』。その右側に政治漫画、「オレの不名誉な日々を誰が返してくれんだ!?」と題して、『無罪一郎』と大書した紙をかかげて“小沢一郎”が道を走っている。つまり、せいぜい言って被害者は小沢一郎・個人どまり、という認識だ。しかし、この認識は間違っている。

検察の強制捜査は、戦後最大の政治の転換点に介入し、いまだ成長過程のデリケートな日本の民主主義化の芽を摘み、自然な成長を破壊した。被害者は国民である。

かりに、小沢一郎という政治家が妨害を受けなければ、この3年間の政治展開は全く別物になっていたかもしれない。政権政党としては素人ばかりのような民主党集団の中で、彼は、例外的に、旧勢力の手口も攻め口も自民党の面々以上に、熟知しており、革命派にして旧勢力にだまされないという隘路を、切り拓けたかも知れなかったから。対米関係も、中国、韓国との関係も、過去の経緯を熟知したうえで対応し、現状とは別の展開になっていた可能性が高い。それらの可能性のすべてが、検察の不当な政治介入捜査で国民から強奪された、盗まれた。そのうえに、自ら小沢外しを強行した民主党の未熟な連中の手で、政権交代は幻滅と荒廃感しか残さないものになった。日本は歴史のターニングポイントで、道をそれてしまった。悲劇だ。われわれは遠回りをすることになるだろう。

公判で、検察の黒い工作が暴露された。秘書の一審公判では、“被告の供述調書が検事の違法な「威迫や利益誘導」で作られた”として、排除された。それどころか、検察審査会の議決を受け、元秘書・石川知裕議員を再聴取したとき、担当検事は検察に有利な架空の内容を盛り込んだ捜査報告書をつくり、特捜部幹部も「小沢共謀の証拠となりうる」という報告書を検察審査会に提出。一審判決で「事実に反する捜査報告書で検察審査会の判断を誤らせることは許されない」と、断罪された。にもかかわらず最高検は、担当検事の「記憶が混同した」「故意ではなかった」と放免している。自律能力も責任感も無い。

東京新聞は判決翌日の朝刊一面コラム「筆洗」で、「▼検察審査会に出された捜査報告書は偽造だった。検察は認めようとしないが、今回の強制起訴は素人の審査会を欺き、有力政治家を葬り去ろうとした東京地検特捜部の『権力犯罪』だった疑いが濃厚である。▼傲慢な検察の世直し意識を助長してきた責任の一端は、マスメディアの側にある。猛省しなければならない」と指摘。社説で、「検察が市民の強制起訴を意図的に誘導した疑いが晴れぬ、生ぬるい内部検証ではなく国会が『検察の“闇”を調べよ』」と主張している。同感である。

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以上が大治浩之輔氏の一文だ。

大治氏は現在77歳。筆者がNHK社会部駆け出しの記者時代の遊軍キャップだった。鋭い視点と強い意志、パッションで毎日、毎晩、担当の記者たちと議論しながら遊軍を率いていた。

大治氏は日本の公害の原点といわれる水俣に入り、有機水銀の被害に苦しむ人たちから話を聞きながら一つのドキュメンタリーの取材制作に関わった。それが、1956年に水俣病が公式に確認されたにもかかわらず葬りされていた実態を明らかにしたテレビ・ドキュメンタリー「埋もれた報告」で、76年、芸術祭大賞を受賞している。ジャーナリストの基本である被害者の視座から考える大治氏でこそ実現した報告だった。

また81年、当時の「ニュースセンター9時」に三木元首相を何度も説得しインタビュー取材した上にロッキード事件5周年の企画リポート制作に関わった。しかし、この放送に時の島圭次報道局長(後のNHK会長)が中止命令を出した時、島報道局長と厳しく対立した。

経歴からもお分かりのように、自由で公正な報道の原則を堅持し、市民に情報で武装してもらうという強い意志と情熱のあるジャーナリストだ。現在は一度退いた月刊「マスコミ市民」の編集代表をヴォランティアで再び引き受けている。

月刊「マスコミ市民」は67年2月創刊以来、日本社会の言論の自由、平和、人権、民主主義の確立を目指した論陣を張っている。言論・報道に携わる者に原点からの姿勢を問う数少ない雑誌と言って良い。

【NLオリジナル】