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イタリア中道左派の「市民参加型」首相候補選びに学ぶ(ピオ・デミリア)

持続可能な民主主義を模索する日本とイタリア

日本とイタリアは、地理的には遠く離れているものの、さまざまな共通項を持っている。そんな共通項のなかには、当然ながらよい面もあれば、悪い面もある。

とりあえず、よい面から見ていこう。日本人もイタリア人も、美しいものを愛で、デザインや美術品にこだわり、家族の絆を大切にし、そして素朴で多様な「本物」の食べ物をこよなく愛する。

私は、イタリアと日本は世界でも最高クラスの食物を生産し、料理し、食していると思っている。たとえば、フランスや中国では、「グレービー」のような濃い味付けのソースが好まれ、それが、本来の食材の味を損ねてしてしまうことが多々あるが、日本料理やイタリア料理には無縁の心配だ。

一方、残念ながら、イタリアと日本には、悪い面における共通点もいろいろとある。各分野にわたっているが、なかでも最も深刻なのは、いわゆる「広域暴力団」――イタリアならばマフィア、日本ならばヤクザ――が社会的に大きな影響力を持っている点だろう。

それともうひとつ、きわめて非効率的で、傲慢で、教養もなく、腐敗した政治家たちが政界にはびこっているという点だ。そして、イタリアの国民も日本の国民も、ここ何年もそんな状況をひたすら我慢することを余儀なくされ、もはや限界にきている。

しかも、とっくに臨界点に達している国民の忍耐をいいことに、イタリアの政界も日本の政界も、政治倫理はますます地に堕ち、統治能力の完全なる欠如をさらしつづけている。このままでは、成熟した民主主義の「持続可能な」制度の確立など不可能となり、両国はますます危険な状態に陥るだろう。

日本語の昔の諺に、「かったいのかさ恨み」というのがある。

ここでは、タブーを承知で敢えてこの諺を使いたい。要するに、「民主的に」選ばれたはずの首相が、5年間でなんと6人を数える事態に耐えてきた日本と、ベルルスコーニのようなグロテスクな道化師を、3度にわたって権力の座につかせたイタリア、果たして、どちらがましなのかということだ。

思うに、いずれの国も、国民はかなり危険な状況におかれていることを自覚しなければならない。歴史をさかのぼり、独裁者体制やいくつもの悲惨な戦争の引き金となった社会的・経済的状況をみてみると、それは現在の両国の状況と酷似している……。

ただし、イタリアでは、新しい形での総選挙がこの春に行なわれることになっている分、イタリアのほうがましかもしれない。イタリアの選挙制度は、日本の小選挙区・比例代表制ととてもよく似ており、まあ、ほとんど同じと言っても差し支えないくらいだ。その選挙のあり方をめぐって、イタリアで興味深い動きがあった。

去る日曜日(11月25日)、イタリア中道左派連合が、一般市民も巻き込んで、来春の総選挙の際の首相候補を選ぶための「予備選」をおこない、大きな反響を呼んだ。

イタリアではこれまで、日本と同様、選挙後の政党間の合意で首相が決められていた。だが、それでは国民が自分たちで首相を選んだという実感は持てない。そこで、中道左派連合の首相候補を事前に提示し、市民も投票に参加できるようにし、その中から、真のリーダーを決めようという、じつにシンプルな、それでいて画期的な試みを実施したのだ。

市民が投票権を得るには、2ユーロ(約200円)を支払って、「登録」しなければならない。それでも、400万人以上の有権者が、複数の政党の「密室」における話し合いで選ばれた首相を甘受するよりも、自らの「選択する権利」を行使するために2ユーロを支払うことを選んだ。しかも、一票を投じるために、何時間も路上に並ぶ人まで出たのだ。

おそらく多くの日本人も、自民党や民主党といった「次期首相候補」になるかもしれない党首の選挙に一票を投じることができるのなら、200円を高いとは思わないのではないだろうか。

ここのところ、私は、鳩山由紀夫氏、田中康夫氏、菅直人氏といった何人かの政治家の話をうかがう機会があった。

その折に、このような予備選についてどのように考えるか尋ねてみたところ、誰からも明快な返事はなかった。もしかすると、私のつたない日本語のせいで、質問の意図が伝わらなかったのかもしれない。だが、それだけではなく、日本の政治家は、有権者の「息づかい」に耳を傾けようという政治的なセンシビリティーの欠如に陥ってはいまいか。

というのも、日本でも(イタリアと同様)、問題は、政治に対して嫌気がさし、拒否してしまっている国民の側にあるのではなく、国民の意見をすくいあげることのできない政党の側にあるはずなのだ。「次期首相候補」の指名に、国民を巻き込んでいけば、政治への国民の関心を呼び戻すことができるだろう。日本人は、3年前の総選挙で、「政権交代」を求めたのであり、けっして毎年首相がころころ変わることを求めたわけではないのだから。

もうひとつ、イタリアの次期首相候補の一人である現フィレンツェ市長マッテオ・レンツィの強い要望によって、多くの「古株」政治家たちが、政界からの引退を決断したことも注目に値する。

そのなかには、元副首相であり、長期にわたりローマ市長を務めたワルテル・ヴェルトローニ(57)といった、比較的「若い」指導者も含まれていた。そのうえで、イタリアの民主党は、政治家が選挙に出馬できるのは長くても4期までということを規則として明記したのだ。4期務めた者は、潔く辞めなければならないと。

ひるがえって日本はどうだろうか。遺憾ながら、あまり希望は見えてこない。大政党は、どこも市民参加型の「予備選」をおこなって党首を決めようなどとは思いもよらないだろうし、私の知るかぎり、「大物」政治家で政界からの引退を発表したのは鳩山氏だけだ。

その間にも、フィレンツェ市長と同様、「若き改革派」と称される橋下徹氏が、齢80にして新党を設立するという勇気(いや、横暴といったほうがいいかもしれない)を持った「おじいちゃん政治家」石原慎太郎氏と手を組んだ。

石原氏ほどの年齢であれば、もうとっくに現役から引退して、家でのんびり孫たちと遊んで余生を楽しんでいていいはずなのに……。この二人が創る「新しい政党」に、いったいどれほどの票が集まるのか、私には予測もつかない。

だが、はっきり言えるのは、倫理的にも社会的にも我慢の限界にきている日本人が、より成熟した民主主義による「持続可能な」未来を託すべきなのは、石原氏と橋下氏の「新傲慢主義」ではないということだ。

【NLオリジナル】