オーストリアはなぜ原発の閉鎖ができたのか?(大貫 康雄)
運転直前閉鎖した原発で太陽光発電
オーストリアが70年代に建設した「ツヴェンテンドルフ原発」は、巨額の経費をかけた末に、完成直前に国民投票で閉鎖された。
以来、この「元原発」はオーストリアの非原発・脱原発政策の象徴となり、各国から見学者が多く訪れる施設となっている。その閉鎖の33年後、電力会社と地元の人たちとの共同事業で元原発が、新たに太陽光発電基地としても動き出した。
オーストリアでも70年代は多くの人が原発の安全性に疑問を持たず、与党、最大野党の双方とも原発推進だった。
ツヴェンテンドルフ原発の閉鎖は30年以上も前に決断されたので、今は経緯を知る人も少ないが、当時としては画期的な「事件」だった。
オーストリアは今、世界でもきっての反原発、再生可能エネルギー推進国家になっている。この大転換の歴史を改めて振り返ってみよう。
地元市民が太陽光発電の出資者となる
1)「ツヴェンテンドルフ元原発が太陽光発電基地へ」というニュースは、NHKなども報じたので知る人も多いだろう。元原発を所有する電力会社は地元の人たちに出資を募り、地元の人は太陽光パネル1枚当たり日本円にして3万円相当を支払って13年間の所有権を得る。
電力会社は出資者に毎年パネルの使用料を支払い、13年後には出資者はさらに1枚当たり9000円相当を支払う。パネル設置など工事費は電力会社が負担する、というもの。
市民参加型の再生可能エネルギー発電はヨーロッパで増えており、ツヴェンテンドルフも、この方式を採用したとみられる。低金利時代には有利な投資でもある。
ツヴェンテンドルフは人口4000人未満と聞くが、参加した人たちは多かったようだ。
ツヴェンテンドルフ元原発はウィーンから西北に30数km。現在、世界からの見学者が多く、研修施設などに利用されている。これからは元原発の太陽光発電基地としても訪れる人が増えるだろう。
原発推進が当たり前だった50〜60年代
2)ツヴェンテンドルフ「元原発」は、建設費に1000億円相当の経費をかけている。
原発運営の国営企業も作られている。それが回収されることなく、つまり一度も放射能に汚染されることなく、閉鎖された経緯はひとつの奇跡と言っても良いほどだ。
1950年~60 年代は、アイゼンハワー米大統領の原子力の平和利用宣言(53 年12月8日)など、大国によって原子力発電の安全神話が作られた時期。オーストリアも例外なく大半の国民が原発の安全性に疑問を持たない時代だった(54 年3月1日には、ビキニでの水爆実験で第五福竜丸などが被曝し、無線長の福山愛吉さんが亡くなる悲劇が起きた。この悲劇から日本では原水禁運動が始まるきっかけとなるが、国際的には矮小化されている)。
原発計画は60年代末から検討され、議会の全会一致の決議で6基建設に踏み出す。ツヴェンテンドルフ原発はオーストリア最初の原発として72年から建設が始まる。
しかしその後、ドイツにある同じ沸騰水型の原発2基で故障がおきて、運転停止したのを契機に原発技術への疑問が起きる。
またドナウ川が氾濫した際、格納容器まで水につかる危険性が指摘される。さらに原発敷地の地下に断層があることも判り、ツヴェンテンドルフ原発計画に対し、知識人や地元の人たちの懸念が高まっていく。
アルプス山中の地下深くに、原発の使用済み核燃料、核(放射性)廃棄物を貯蔵する施設を作る計画が知られると、予定地とされた近隣の村々から強い反対論が起き、この計画も行き詰る。
一時は核廃棄物をイランが買い取るとの話も出たが、イラン革命で当時のパーレビー国王が追放されて立ち消えになる。
原発の安全性や核廃棄物の安全貯蔵に対する反対論が無視できなくなり、74年第2基の原発建設が延期になる。
反原発に傾いていった70年代
3)こうした原発反対の声の高まりに危機感を抱いた政府は76年、「原発は安全」との情報キャンペーンを始める。
ところが、新聞各紙が政府の一方的なキャンペーンに逆に初めて原発批判の記事を載せ始めた(この視点、姿勢が日本のメディアでは考えられない)。
これで一般の人たちが原発の実態をよく知るきっかけになり、ツヴェンテンドルフ原発の建設が進むにつれ「原発運転開始」への懸念が強まっていく。
そして、人々は初めて以下のような原発の負の側面を知ることになる。
*放射能の人体への深刻な影響
*原発の技術は未完成のもの
*核廃棄物の安全管理・貯蔵の困難さ
*「核の平和利用」と軍需産業の関係
*事故の際、的確な住民避難が不可能なこと
77年4月、ザルツブルクで「核のない未来を目指す国際会議」が開かれ、日本の原水禁運動の関係者が広島・長崎・ビキニの被曝の実相を語り、オーストリアの人たちに放射能被害の深刻さを知らせたことも、反核の世論の盛り上げに貢献した、と言われている。
77年秋には、初めて規模の大きいツヴェンテンドルフ反対デモが行われる(オーストリアの反原発デモは終始、非暴力に徹していた)。
この最中、政府は原発推進色の濃い「原発報告」を議会に提出。しかし国民は逆に反発。
* 多くの問題点を無視し、国民を騙すもの。裏付けとなる研究・調査も不十分などの反論が続出
原発推進の野党保守党までもが、ツヴェンテンドルフに限っては安全が十分とは言えないと言い出す。
こうした事態に78年6月、クライスキー首相は「11月5日に国民投票を実施」すると発表する一方で、原発推進キャンペーンに多額の費用をかけていく。原子力関連業界もキャンペーンを強化する。
国民投票により原発の閉鎖が決まる
4)さて、この政府と原子力業界の攻勢に対し、反原発の活動家たちは金もなく、まだ少数派だったが、唯一行動力があり、智恵があり、熱意があった。そのため効果的な活動ができたようだった。
「原発に反対の母の会」、「反原発教師の会」、物理学者の会、生物学者の会、芸術家の会、宗教者の会など多様な集団が声を上げ、各地にこれらの団体の活動の調整センターが作られる。
与党・社会民主党支持者は困った挙句、「首相は支持するがツヴェンテンドルフは反対」のスローガンをひねり上げ、各地でツヴェンテンドルフ原発反対の活動を展開する。
国民投票の直前、ツヴェンテンドルフ原発は98%完成していた。アメリカから極秘裏に核燃料が運び込まれたとの緊迫した情報がもたらされる。
11月5日当日、有権者の3分の2が国民投票に足を運ぶ。
結果は大方の予想を覆し、ツヴェンテンドルフ反対が31.6%、賛成が31.09%、棄権35.9%、無効1.5%と出た。棄権を除く有効投票の内、50.5%が反対、49.5%が賛成)。僅か3万票足らずでツヴェンテンドルフ原発の閉鎖が決まった。
際立ったのは、若者たち、特に若い女性たちが反原発だったこと。またツヴェンテンドルフの建設現場や、原発運営に作られた国営企業で働く人が多い地元や周辺の町村の人たちの間でも原発反対が多かったことだった。
国民投票の前、クライスキー首相が「原発が否定されたら辞任」を口にしたのを受けて、本来原発推進の最大野党の保守党支持者の一部が首相を更迭する機会と見て「原発反対」票を投じたことも逆転劇を助けた面がある(しかしクライスキー首相は辞任しなかった)。
いずれにせよ国民の審判は下った。この国民投票の結果を受けて、政府は「原発で発電された電力の使用を禁止する法案」(以後、反原発法と略)をオーストリア議会に提出。国民投票から1カ月余り、議会は12月15日、全会一致で法律を可決する。
原発運営に作られた国営会社は即刻解体。ソ連のウラン企業や、アメリカ・エネルギー省との契約は解除。フランス・コジェマ社との核燃料再処理契約も解除。コジェマ社の株式は外国企業に売却。
(こういう果断な決断こそ「決められる政治」というべきだろう。この迅速な決断と処理は、今の日本では到底考えられない。日本ならば恐らく、「原発が98%完成したのに……」などと「原子力村」がまことしやかな理由を挙げ、経費回収まで原発運転、などと言いかねないだろう。ましてアメリカ・エネルギー省との契約解除など対米従属の政府では考えられないだろう)
EU全域の脱原発を訴えるオーストリア首相
5)ただ、この法律には議会の3分の2の賛成で法律を廃棄できる、との条項が付けられる。
オーストリアが最初の原発を完成直前に閉鎖を決定して3ヶ月後、79年3月28日にスリーマイル島原発事故が起きる。メルトダウンまで起きた深刻な事故だった。
しかしツヴェンテンドルフ原子力業界や原発推進派は、この3分の2条項を利用して「反原発法」を廃止すべく様々な活動を展開し、反原発活動家には気の抜けない年月が続く。
原発推進派が最終的に原発建設を断念するのは86年のチェルノブイリ原発事故が起きてからだった。
オーストリアの反原発運動を担った人の中からは、環境活動家フレダ・マイスナー=ブラウ氏(女性)や教師マチルダ・ハラ氏(女性)のように反原発・反核活動が評価されて「核の無い未来」賞(Nuclear Free Future Award)の受賞者を出している。
マイスナー・ブラウ氏はオーストリア緑の党の創設者でもあり、95年ウィーンでの第1回国際人権法廷を主宰するなどして、オーストリアでの同性愛者差別を禁止する法の制定にも貢献している。
今やオーストリアの反原発は国民的課題となった感がある。単に再生可能エネルギー利用推進の政策だけではない。非原発・脱原発は国民全体の安全にも関わる現実の問題があるからだ。
隣国チェコやスロヴァキアなどで原発建設が計画され、万が一事故となると自国に深刻な影響が及ぶのは必至だからだ。
東京電力福島第一原発事故から1年目の今年3月11日、ヴェルナー・ファイマン首相は「今年中に少なくともEU加盟国の6カ国以上で、EU全域を脱原発にするべく署名活動を始める」と発表している。EUのリスボン条約では少なくとも百万以上の署名が集まれば、EU委員会は何らかの立法手続きをして各国に諮ることになる。
第三者が見るところ、現状でEU全域の脱原発可は凡そ不可能だろう。何といっても各国それぞれの国内事情、エネルギー政策があるし、他国からみれば「原発問題では常軌を逸したオーストリア」と映る。
しかし、今やEU第一の国ドイツが脱原発を明確にし、イタリアも国民投票で二度と原発を作らなくなった。周辺各国も積極的な原発推進者は減少傾向にある。ヨーロッパ議会にも反原発の議員が増えている。予想外の展開もあり得る。
何と言っても33年前、不可能を可能にした国民であり、放射能汚染無き環境を少しでも広げたい、その可能性を追求する姿勢は多くの示唆を与える。
【NLオリジナル】